二郎系ラーメンには不思議な魅力があり、僕もどうしてか知らず知らずのうちにその魅力に惹きつけられ、ついつい週に一回くらい食べてしまったりする。あんなにも全てが不適切な量の料理なのに。食事中も喜びはなく、というよりあれは食事ではなく、ただ塊を喉奥に流し込む作業と言うべきだ。食べ終えた後も、翌朝になっても口から立ち上がるニンニクの臭いや、液体のまま飛び出してくる中便(?)に苦しまされ続ける。しかししばらく経つと、その辛かった記憶は何処へ行ってしまったのか、また気づかないうちに行列の中に身を投じている。そう、食べるまでも一苦労で、だいたい1~2時間程並ぶ。夏はとにかく暑くて、冬はとにかく寒い。
このように、二郎系ラーメンは向き合っている瞬間は苦痛の連続であるが、しかしそれにも関わらず、やはり食べずにはいられない。その不思議さは、僕は僕の個人的な感情ではなく、人間の先祖たちが歴史の中で、くり返しくり返し感じてきた気持ちに由来するのではないだろうか。その人間の、もっといってしまえば生き物の記憶によって心動かされているような感覚が、二郎系ラーメンを目の前にしたときに僕にはある。
そしてそれは、自分が生き延びるために自ら手を下していた時代の緊張感ではないだろうか。静まり返った店内、食べ切れるだろうかという不安(二郎系だと残してしまうと、どんな一丁前の大男でも、一丁前に怒られる)、15分で食べ切らないといけないという不安。凄まじいプレッシャーの中での食事は、木陰から獲物を狙う時の張り詰めた弓の弦、そしてこれを取り逃したら今日は何も食べれない、といった感覚と、まったく同じとは言わないが、似たようなものがあるのではと思う。
そしてその緊張感から思い出される人類の記憶は、現代に生きる僕たちの痛切な矛盾も浮かび上がらせる。生きるために殺していた時代の記憶が流れているのに自らの手を汚さずに享楽的に食事を楽しんでいること、すべての生き物の命が等しく価値があるのに、全ての命には生きる意味があるのに、ぜったいにこの豚肉は僕に食べられるわけに生まれてきたわけじゃないこと。分厚すぎる豚肉の命ありし日の姿を思い浮かべる。豚の小さく、透き通った瞳には、いったい僕はどんなふうに映っているんだろう。生きるために命を奪っていることも知らない生き物に、己の腹を食いちぎられるのは、どんなに悔しく苦しいであろう。
そう思うのに、そう思うために、せめてそれを忘れないために、今日もまた二郎系ラーメンを食べる。いつか僕たちは、悪意がないという最大の悪によって、生き物を殺した因果を受ける日がくるのだろうか。そうやって少しだけ自分の罪を思い出すことで自分を甘やかし、今日ものうのうと僕と同じで、かけがえのない誰かが代わりに死んだ世界を生きている。