About

Atelier YAMORI

2021年設立。僕の心の中だけに存在している設計事務所。しかし妄想が現実になりつつある。
僕に建築の素晴らしさを教えてくれた寿一や鄭先生、殿井さん、宮本さん、吉村さんのいるか設計集団のみんな。僕はみんなが大好きだった。 受け取った沢山のものを忘れないよう、いるか設計集団の英語名「Atelier Iruka」と同じ成り立ちの事務所名にした。 ヤモリは漢字で書くと「家守」になる。建築設計事務所にとって、とっても縁起が良いだろうと思い採用した。

舟木健太郎

1999年4月7日生まれ。O型。左利き。高所恐怖症。慢性鼻炎。若白髪。お腹が緩い。ドからミまで届く。指先不器用。足もデカい。 天然パーマ。鼻と耳がデカい。喋るのが遅い。・・・

いつも考えていること

どうしてこんなに寂しいんだろう。

自筆年譜

1999年(0歳)
4月7日、母・舟木素子、父・高松一郎の間に長男として生まれる。体重3990グラム。母によるとあまり泣かない子であったらしい。
2000年(1歳)
記憶なし。
2001年(2歳)
記憶なし。まだ一人っ子。どんな2歳児だったのだろう。
2002年(3歳)
弟・大地くんが生まれる。
2003年(4歳)
障子におそるそる人差し指を当て、少しずつ力を加えていくと、あるとことで急に障子紙の力が抜けて、破れる。 それが楽しくて破っていたら、お母さんたちに死ぬほど怒られた。家の本棚に置いてあった「うんぴ・うんにょ・うんち・うんご」 の本に載っている「うんご(やけに硬いうんちの呼称)」が怖くて、夜寝れなくなる。 もし暗闇から突然うんごに襲われたらどうしようと、小さい脳みそで必死に考えていた。なんていったって、うんごは硬い。 その硬さリビング越しに一気に襲撃されたらひとたまりもないのだ。ピッチャーライナー。即死。まだ死を知らない、 うんごが怖かった時代の話である。
2004年(5歳)
保育園のお昼寝の時間は、太陽が雲に隠れて少し部屋が暗くなったり、 雲から出てまた少し明るくなったりすることが興味深く、窓の外をずっと眺めていた。 ある日の夜、大人たちが張り詰めた顔で僕を囲み、明日からあなたは高松健太郎ではなく舟木健太郎になるのよ、 と言われる。それはよく分からなかったが、気を遣う、というのものの存在を初めて知った。
2005年(6歳)
保育園の帰り道にある、きんでんの警備員さんに毎日手を振っていた。日曜の朝、時計が読めるまで ナントカ戦隊ナントカレンジャーを見せてもらえず号泣。結局プリキュアの時間くらいまで時計は読めなかった。 ある日、公園の鉄棒にちんちんが触れると気持ち良いという事実に気づいてしまう。ドロケイもそこそこに、 ちんちんを鉄棒に擦りつけることに熱中。先日思い出の公園を訪れると、僕が必死に身体を寄せた鉄棒は姿を消し、 全く赤の他人の鉄棒がすまし顔で佇んでいた。 小学校入学が近づくと、昼寝をしない練習がはじまる。照明が落ちた保育園で、こっそり遊んでいていることに 不思議と興奮する。
2006年(7歳)
品川区立第三日野小学校に入学。カレーライスが給食の日の四時間目の授業のとき、 後ろの席の可愛い女の子を注射でーす!と言って鉛筆でつついていたら、 先生にチクられて給食の時間に大説教を食らう。鼻水をすすりながら食べるカレーはしょっぱいということを知った。 ある朝、起床時刻より早く目覚めると母の姿がない。これは捨てられたと直感し、エレベーター乗り場に走り、 エレベーターが7階に戻ってくるのを願いながら大嗚咽。母はただゴミ捨てに行っただけだったので、普通に戻ってきた。 その朝、同じマンションの友だちに「今日朝、めっちゃだれか泣いてなかった?」と聞かれるが、寝ていて気付かなかったと 白を切る。 はじめてのサンタクロースが我が家へやってくる。25日の朝、起きるとそこにはサンタさんいしてはやけにささやかな贈り物と、 母親の筆跡と酷似した字で、母親と同じプロパガンダを主張する(良い子にたくさん勉強しようねといった趣旨の内容) サンタさんからのお手紙が入っていた。サンタさんが我が家に来たのは、この2006年の一度きりである。
2007年(8歳)
ゲーム、マンガ、テレビと考え得るすべての娯楽が禁じられていたので、架空の野球選手を空想して その年度別成績をまとめるという遊びを発明。累計で500人くらいの架空のプロ野球選手の一生を共に歩んだ。 この頃から机に向かって勉強しているふりをしては、空想世界を紙に描くことで歓びを覚えることをはじめる。 しかしお母さんに見つかるたびに激しく怒られ、プロ野球選手たちは突然の引退に追い込まれていった。 この時期に打率と防御率をたくさん計算したので、乗法除法をマスター。 友だちのたけるくんの家で遊んでいる時、なぜかTVに濡れた雑巾を貼りつけると、画面のアングルは動くのに 雑巾は動かなくて面白い、という謎の発見をし、その遊びを一時間ほど興じる。自分の家に帰ったあと、TVが壊れたという電話が入り、 たけるくんの家へ呼び出される。壊れて勝手にチャンネルが切り替わり続ける珍品の前に正座させられ怒られたが、壊れたTVが 面白過ぎて、笑いをこらえるのに必死だった。
2008年(9歳)
誰もいない家に帰り、ポストに入っている夕刊を回収するのが当時の僕の役割。夕刊にはいつも イチローが何本もヒットを打ったという記事が載っており、当時の僕は一生イチローは200安打を打ち続けるものだと 思っていた。漫画「日本の歴史」を通読。お城に興味を持ち、自由帳に難攻不落の縄張り図を描いていた。Z会の通信講座が難しすぎて母発狂、僕も発狂。初めての塾は、希学園の夏期講習。緊張しすぎて道中で 嘔吐する。ある日、買い物へ行く母と弟に「僕がオートロックを開錠するから鍵は持っていかなくていいよ」 と謎の提案を行う。そして留守番中、無情にも眠気が襲来し寝落ち。目が覚めると、なぜか母と弟は家にいて、 横の部屋のベランダと舟木家のベランダを隔てる仕切り板に大きなギザギザの穴が開いていた。 殺されるんじゃないかと思うくらい怒られる。
2009年(10歳)
祖父の影響で、放課後に再放送の「相棒」を見ることを覚える。最も印象に残っている回は「ボーダーライン」。 TVは基本的に禁止だったので、絶対に親にばれないように見なければならない。母親がいつ帰ってきても気づけるように、 音量を最小にして字幕で相棒を見ていた。今でもクセで字幕付きでTVを見る。 希学園へ通い始める。運動会ではソーラン節を踊る。隣のクラスの若い女性の先生がお手本で前で踊ってくれている のだが、その先生のおっぱいの揺れに気を取られ、振り付けが一向に覚えられなかった。
2010年(11歳)
ある日、母親宛てに届いたマンション情報誌を何かの衝動に駆られて封を切る。そこには、あらゆるマンションの間取り図と、その販売価格が載っていた。3億円の150㎡のマンションに激しく興奮。それ以来、勉強をしているふりをしては、5mm方眼のノートに平面図を描く日々を過ごす。定期的に古紙BOXを漁っては、物件販売のチラシなどを部屋に持ち帰って間取りの勉強をしていた。この時代に僕が夢想した家々の設計図の多くは、母親によって没収されてしまった(記憶違いの可能性もあり)。
2011年(12歳)
東日本大震災を経験。緊急地震速報ノイローゼになる。
2012年(13歳)
中学受験に全て合格。調子に乗る。私立駒場東邦中学校へ入学。 女子生徒がひとりもいないことに衝撃を受ける(男子校)。野球部へ入部。
2013年(14歳)
祖父母の引っ越しを手伝った時、おじいちゃんの二重式の本棚の奥側には官能小説が隠されていることを発見。 3冊ほどをこっそり抜き去り、それをオカズに致してしまう。 次の日、これは特A品だから皆にも教えないとと思い学校へ持っていく。一同大興奮。 興奮しすぎて、その官能小説は担任の大谷先生(多分童貞)に没収されてしまった。 卒業のときに返すと言ってたのだが、返却には至っていない。 ある日、斜め後ろの同級生に学校で携帯を使用していることをチクられる。罪はたしか職員室へ1ヶ月毎日預けること。 当時の僕はチクられたがためにそんな罰を受けなければならないことが許せずに不貞腐れていた。 その日は歴史ノートの提出であったが先生の呼びかけを無視して机にうつ伏せる。頭の上から先生が「気持ちが向いたら持ってきてくれよな」と優しい一言を掛けて去っていく。 意地になって不貞腐れていた自分が情けなくて、思わず号泣してしまった。放課後の説教まで号泣し、その後ノートを出しに行く。 後日、返却されたノートの評価欄を見ると「B」の文字が。提出期限遅れでまさかの減点。減点するんかい!! これがかの有名なタナダイ・ウルス事件である。こんな感じの事件に事欠かず、とても楽しい一年であった。 いつかみんなおんなじマンションに住んで、毎日この頃みたいなお馬鹿すぎる遊びを朝から晩まで続けたい。
2014年(15歳)
友人の宮永が駒場東大前のマックでM時開脚を披露。その美しさと面白さに衝撃を受ける。
2015年(16歳)
春休みに初めてCHAGE&ASKAの音楽に触れる。なんか美しい歌声となんかすげえ歌詞に衝撃を受ける。 それまで聴いていたどんな歌手の音楽とも違う何かを感じた。 この年の鎌倉遠足から始発でゴール地点に集合しスタート地点へ向けて逆走するという奇行を開始する。 夏休みにスライディングの際に負傷した右手首の靭帯の再建手術を受ける。なぜか全身麻酔。 麻酔が切れると右手は重いゴムのような物体のようで、全く感覚がないのに異様に重く、そして鈍痛がそれなりの強度を持って 絶え間なく続いていた。あまりにも痛すぎて夜中三時頃にナースコールを押す。若くて綺麗な看護師さんに「痛み止め、座薬ですけどやりますか?(五七五)」で聞かれ、 しかし恥ずかしくて大丈夫ですと断ってしまった。今でもこの時の決断を後悔している。座薬を入れて貰えばよかった。 母親には「お尻は一方通行ですよ」と教わっていたが、この時ばかりは逆走しても良かったんじゃないか。 もし再び、僕に全身麻酔の機会が与えられたら、その時は迷わずに座薬の痛み止めを入れてもらう。来るべきその日に備えて、 僕はお尻の穴を心がけてキレイにするんだ。
2016年(17歳)
体育祭の徒競走で一等賞を獲る。嬉しい。江の島遠足では逆走する予定がビーチバレーが楽しすぎて計画変更。 遠足もそこそこに日没までビーチバレー。修学旅行では初の海外、台湾へ。「クーアイ!」が可愛いという意味の 現地語だとバスガイドのお姉さんに教わり、それを4日間で1000回くらいバスガイドさんへ連呼し続ける。 なぜか班員全員で桃鉄25年するというミッションがあり、それを達成するために観光先を削っていた。 徹夜で桃鉄をした翌朝、目を閉じたまま食べたホテルのちまきはとても美味しかった。 友人の雄也はホテルの浴槽にお湯を張り、そこに射精し精子を金魚のように泳がせる遊びを興じていた。
2017年(18歳)
高校三年生なのにそんなに勉強していなかった。当然受からず。浪人かお笑い芸人を志すかで悩むが、前途有望な同級生の未来を黒く塗りつぶすわけにはいかないよな…と思い、浪人を選択。河合塾新宿校に通うことに。
2018年(19歳)
8月24日、祖父・舟木成二永眠。おじいちゃんは、大学生になった僕の姿を見ることなく、死んだ。僕が今生きているのは、おじいちゃんが際限なく無償の愛を注いでくれたからだ。頭をワシャワシャと撫でる、おじいちゃんのガサガサで分厚い手が好きだった。
2019年(20歳)
神戸大学工学部建築学科へ合格。一年間挨拶していた河合塾の守衛さんも喜んでくれた。 ここで保育園以来の守衛さんフェチの伏線を回収。 受験終了により念願のASKAの初ライブに。「Made in ASKA 2019」新潟公演。 初めて生でASKAを見る。あこがれの人は、身長が30mくらいあると思っていたら、普通に170cmくらいであった。 同じ人間であると知る。初めてで興奮と緊張で、何がなんだかわからないままおわってしまった。 人生初の夜行バスで東京へ戻る。神戸へ。一人暮らしになった途端、友だちもおらずホームシックになる。 関西人はせっかちで、エレベーターの閉まるボタンを連打すると知り衝撃を受ける。 台風のある日、熱唱していたら隣人に警察を呼ばれる。タオル一丁で応対し「服を着なさい」と怒られる。 次はパンツだけ履いて応対したら笑って許された。隣人だった人、ごめんなさい。 吉村順三の「軽井沢の山荘」の図面をトレースする課題で、吉村順三の顔を描いて「吉村順三 外観パース」として提出。 製図室のヒーローに(?)。 秋頃から弟が不登校になる。それ以来、大地くんは一度も学校に行っていない。
2020年(21歳)
友人の岩島(通称:イワシ)とふたりでシェアハウスをはじめる。卵や納豆やナスを食べない人間がいることを知り 衝撃を受ける。はじめての設計課題。中江先生に「シンメトリーはつまらないよね」と言われカチン。 「シンメトリーってなんすか」と反抗的な態度を見せるがそれはただの左右対称のことであった。
2021年(22歳)
シェアハウス解消。松下ビルの401号室に住み始める。入居初日に網戸に手をかけた瞬間、 網戸が外れて地上まですさまじい勢いで落下。奇跡的に下に通行人がいなかったため、殺人犯にならずに済む。 網戸はそのあとすぐに交換して貰ったが、その後4年間で一度も触らなかった。 福岡伸一の「動的平衡」を読んで衝撃を受ける。とある夏の日、ミッキーの家で芦田と3人で飲み桃鉄をする。 限界を超えて酔う。朝なんとか家へ帰る。目覚めると時計は14時で、そしてインターンの初日だった。 チョン先生から数本の連絡が入っている。ガチでヤバイ。全身の毛穴から冷気が噴き出る。 頭痛がガキンゴキン響き渡っていたが、死ぬほど走って行った。すごい勢いで謝ったがなぜだかそんなに怒っておらず許された。 拍子抜け。ちなみに他の2人も散々で、芦田は帰り道に嘔吐し、ミッキーは翌日のコロナの予防接種会場で突然嘔吐し、まだ見ぬ副作用に会場中の医療従事者を恐怖のどん底に突き落としたらしい。 面白過ぎる。 10/31、芦田に連れられて水道筋で飲むと、帰りに突然塾を創業することを宣言される。 いわゆるみっちゃん塾のはじまり。そこから二ヶ月くらいはみっちゃん教室の生徒集めなどに奔走。
2022年(23歳)
山崎寿一研究室に入る。寿一は実は、カイトのお母さんと研究仲間で、僕のことを入学した時から知っていたという。 人間の縁は思わぬところで繋がっている。 誕生日を少し過ぎた頃、なんかお父さん探したら見つかるんじゃねと思い、探す。見つかる。医者を見つけるのは容易いのだ。勤め先の病院に葉書を送り、 数日後メールが帰ってきた。これは春ごろの話で、夏休みに20年ぶりくらいに会った。僕とほとんど同じ顔をしている。 同じ顔をしているくせに、喋り方とかがあんまり似ていなくて、不思議な気持ちになった。 卒業設計では「社会的な課題を解決しなければならない」と指導されるが、建築をつくることと、社会的課題を解決すること の繋がりが分からず、混迷。迷走を続ける。色んなことを言われすぎてすべてがどうでも良くなり、開き直る。 ASKAが歌うための劇場をつくることにした。最終的に出来たものを無理やり地域の課題に結び付けて提出。 その卒業設計が結局自分の人生の伏線として活きてくるのかはまだ分からない。
2023年(24歳)
大学院へ進学。山崎研が消失したので、日本建築史の安田研究室へ転ゼミ。栄えある0期生に。 皆がインターンへ向かう夏休み、jadasという短期留学プログラムのようなものに参加。 コペンハーゲンで3週間、津々浦々の建築学生20人が集まって共同生活をしながら建築を学ぶ。 先輩の藤谷さんからは「テラスハウスみたいなもんだぜ!」と教えて貰っていたので、ウキウキで参戦したが、 ハードスケジュールに翻弄され恋に落ちる余裕はなかった。ついでにその後、3週間ヨーロッパを巡る。
2024年(25歳)
1月9日。一年間迷走し続けた修論の研究テーマが網戸にようやく決まる。 1月13日、ゆずちゃんに翌日もデートを控える中、なぜか告白。なぜかOK。付き合うことに。 ゆずちゃんの写真を見ながら研究室で作業をしていたら後輩たちに気持ち悪がられる。 春休みに山崎健太郎デザインワークショップのインターンへ。卒計時に「52間の縁側」を新建築で見て以来、秘かに憧れていた。 初日にいきなり山崎さんと面談。こんな社長直々に面談をしてくれて、こちらも覚悟を見せなければと思い、 その場で「来年から働かせてください」とお願いをする。まさかのOKを貰う。就活終了。 その後は普通に2週間インターンに行き、模型をつくった。
2025年(26歳)
長かった学生生活が終了。晴れて山崎健太郎デザインワークショップへ入社。しかし、全く仕事のコミュニケーションが出来ずに 怒られ続ける。仕事の内容だけでなく人間性にも問題があるという認識に陥ってしまい、どんどんと悪循環へ。毎日泣きながら出社し、 毎日泣くために会社の近くの公園へ行き、毎日泣きながら帰宅していたら、ある日曜日の朝に、柚ちゃんから別れようと連絡がきていた。 ということでフラれる。フラれた翌日もちゃんと終電まで働いたのは偉かった。その後も少しずつ進歩はしているが、 求められるレベルには遠く及ばず、変わらず怒られ続ける。ある日もまたたくさん怒られたあと、アフターフォローの飲み会へ向かう エレベーターの中で優しく「ウチ入ってから、良いところひとつもないな」と言われる。良いところが一つもなかったことを知る。 その後に飲んだビールはゲロの味がした。その一週間後、芦田が「飲みに行こや」と言われ退勤後に飲み屋へ。 「忙しい俺がお前とタダで飲むと思うか!」と言われ、「?」と思っていると「今から飛んでみっちゃん教室で働け」と言われる。 今の担当物件が終わるまでは…と難色を示すが、アカンと一蹴。ここは僕が折れるしかないと観念。どうせどっちの会社も 僕の人生はどうなっちゃったっていいので、それならばより僕が必要そうな方を選択。そのまま飛ぶ。LOOPを借りて事務所へ向かい、 PCなど持ち出せる限りの私物をカゴに詰める。夜中2時半。そこから実家へ戻り、着替え一日分とカメラとフィルムだけ持って、 そのまま家を出る。午前4時半。そのまま羽田空港へ。途中でLOOPの充電が切れる。亡命には必ず困難が立ちふさがるものらしい。 なんとか最寄りのスポットまで引きずって行き交換。羽田空港へ。空港でチケットを購入し、朝イチの便で山形へ亡命。…

2026年(27歳)
あああうんちうんち!!!!!