(仮称)ロシアのバナナのお話
□1?□
こんなに暑いのにどうしてサラリーマンは黒い長袖を着ているんだろう。
逆に小学生の冬の体育の授業はどうして半袖半ズボンなのか。取り替えっこはできないのだろうか。しかしそんなことより暑い。
左手で団扇を扇ぎながら右手で改札機にタッチする。定期利用。残金370円。コンコースの柱はもう少し細くする事ができないのだろうか。
誰も「明日への神話」を見ない。こんなにも大きくて、こんなにも色鮮やかなのに。不思議だ。
落合は苦手なコースはどこですかという質問に、ど真ん中だと答えていたが、コンコースも同じで、ど真ん中が一番空いている。
落合に打たれないよう、人混みにまぎれぬようにど真ん中を歩く。それにしても暑い。弱冷房車なんて一体誰のために存在しているんだ。
乗り換えの間に汗ばんでしまった。臭くないかしらと心配になる。電車はなかなか来ない。人ふたりがすれ違うのがギリギリのホームで電車を待つ。
電車は宣言通りの時間に、宣言通りの場所に、やってくる。凄い事だ。僕にはできない。
例えば、友だちと三時に下北沢の改札でと待ち合わせたとする。三時ぴったりに待ち合わせ場所に登場できる人間は少ないだろう。
それともそれぞれの人間の左脚を左レールに、右脚を右レールに設置したら、三時ぴったりに待ち合わせることも可能なのだろうか。
しかし友人は五番線に到着しているのに、僕は十二番線に到着してしまったら、時間通りでも落ち合うことができない。落合。
こんなとき、三冠王ならどうするんだろう。打てるボールを打つんだよ、と落合ならいうだろう。さすがだ。
そんなことを考えているうちに電車がしっかり宣言通りの時間にホームへ滑り込んできた。さすがだ。
遠くで蝉が鳴いている。渋谷に木なんて一本もないのに、しっかりセミの鳴き声は聞こている。
こんなに人間の音がうるさいのに、セミの鳴き声は聞こえている。
それを確認すると僕は空調の風が直撃するところに立ち、左手で吊り革を掴んだ。
吊り輪、ではなく吊り革。たしかに革が吊っている。しかしこれを吊り革と認識するだろうか。僕はそうは思わなかった。
電車は宣言に従い、次の駅へ向かっていった。
□2?
オルゴールは、金属を金属で弾いているているとは思えない優しい音がする。
僕の家には、ぬいぐるみ内蔵型のオルゴールがひとつあった。
ブラームスの「子守歌」を奏でる、枕を抱いてうつ伏せに横たわる盲目の子熊のぬいぐるみであった。
母が子どもの頃にはしっかり目があったらしいのだが、僕たちを育てている間にいつの間にか両目とも無くなってしまったらしい。
脇腹から飛び出ているネジを深く巻くと、子守歌のフレーズが何度も繰り返される。
最初は快調に、少しずつメロディは小さく、ゆっくりになっていき、そして最後の一音をポン…と終わる。
それはまるでこの子熊が過ごしてきた年月をそのまま表しいるようであった。
僕は子熊の一生をくり返し、くり返し聴いた。くり返し聴くと時間が、人生が分かるような気がしたのかもしれない。
子熊の柔らかな微笑みには、僕たちの家族との様々な歳月の酸い甘いの末にたどり着いたような風格があった。
潤ってばかりいる自分の手もいずれこの子熊のように色褪せ乾いていき、そして最後はこんなふうに微笑むのだろうか。
眠れない夜のたびに僕はその答えを知るべく、ネジをまわし耳を傾け、微笑みを眺めた。
しかし子熊が答えを教えてくれる前に僕はいつも眠りについてしまい、ついぞその答えを知ることはなかった。
ときどき子熊は、僕の夢に遊びに来てはその答えをこっそり僕に教えようとしてくれた。
「いつ頃訪れると分かっている死に向かっていくことは実はそんなに恐れるようなことではないんだよ」
「そうなの?」
「そうなんだ」子熊は言った。「僕たちは君たちと違って、オルゴールの音がゆっくり、小さくなっていくのが分かるからね」
「ふぅん」…
僕はもうすぐ二七歳になろうとしていた。僕のメロディも徐々に小さく、ゆっくりになってきている気がした。
僕の脇腹にはネジはなかった。仮についていたとしても、そのねじを巻いてくれる人は僕の横にはいなかった。
ねじが刺さっていた場所を探るように、僕はあばらをときどき撫でた。ただ痩せているだけだった。
□3?
あああ