2026 4
忘れた。ティーハウスで朝から晩まで働いた。四時からの所内の打ち合わせが終わったのは、八時だった。 許しがたい長さであった。集中力を欠き、その後惰性で仕事した。23時に仕事を終え、家に帰って少しビルの設計をやった。 風呂をキャンセルした。気づくと三時だった。そのまま倒れて寝た。パレッド…。パイビリオン。コンビニ人間の表紙。 つっきーのイメージに近づいていきたい。しかし難しい。つっきーの頭の中の景色を、物質に変換しないといけない。 古田さんは凄い。僕もいつか、あんな風になれるのか…?つっきーに対して臆することなく案を出していく。 そしてそのテンポがとてもはやい。すぐその場で色々な案を思いつけるようになるというのは、ひとつ大切な能力であるように感じる。 僕にはまだそんな力はない。無力。あらゆる面における無力。出来ない種目の体育の授業が、時間割の一限から六限まで詰め込まれているみたいだ。 その無様なパフォーマンスをクラスの女の子たちに見られている。最悪だ。そういう残酷さを僕は今まで、どうやって切り抜けてきただろうか。 忘れてしまった。
ビル設計は上手くいかない。というか一案目で完璧になるはずはない。ここからあと一年くらいこねくり回したい。 「ヒラルディ邸」のようなアプローチも良いかと思ってやってみたが、やはり少し窮屈で、あまりイメージとは近くない。 「谷村美術館」も見てみよう。「ヒラルディ邸」はおそらく縦横2.4mくらいの広さがある。あの黄色い廊下の部分。そして奥に青。 ナイス・カラーリング。難しい。なるべく正方形に近いプロポーションにした方がいいような気はする。要検討。 外壁の仕上げもRCの打放でいいのだろうか。スカルパが展示物の背景に使っているみたいな、あおういう壁パネルを並べていってみたいのだけれども、そんなことはできるのかな。 打放のマテリアルを入れてモデルをつくると、少しRC感が強くなりすぎる。そもそもRCを自分達で打つのは大変なので、なるべくそれは減らして、自分達で作れるようにしたい。 外殻だけRCみたいにしたい。そこに木で設えていく。内藤廣の自邸みたいな。一階の床は、溶岩タイルを敷く。しかし、あんないい溶岩タイルなんてあるかな。 バラガンみたいな。探さないと。ポリカもどこかで使いたい。ひとまずこの日、屋上までの平面図をすべて描いた。
2026.4.2(木)
寝坊。急いでシャワーを浴びて、米を炊いて杏樹ホームへ向かう。 少し遅れて到着。JWCADを初めて使う。難しい。一時間半くらい基本操作も分からずに無意味な手足の動き(足?)を繰り返した。 徐々になんとか分かってくる。しかし依然非効率。悔しい。とりあえず五時まで、描けるだけ描く。 この会社では、パートのおばちゃんよりも役に立たない自分がいる。休み時間に「哲学史入門Ⅰ」を読んでいる場合なのだろうか。 茶室について勉強している場合なのだろうか。五時に退勤して、家賃を振り込み、スーパーで買い物をして、明るいうちに家に帰る。 せっかくなので、TVで阪神戦を見る。見ながらビルの3Dモデルを立ち上げていってみる。三階の子ども勉強スペースが、キッチンから監視できないことが判明する。 設計直し。角度が急すぎた。子供の勉強スペースは二階に必要である。一階、二階からまた設計し直そう。気になる。 アプローチも登っていくのではなく、下っていく方がいいのではないかと思い始める。 あとは、チャリ屋とCAFEの境界、RCの基礎立ち上がりの部分が気になる。なんかよくない。溶岩タイル、RC立ち上がり、カフェ部分の床仕上げ。 少しスケールを外した巾木みたいな感じで、木を途中で差し込んでも良いかもしれない。検討。ひとまずプランを修正する。 今度はA3に大きく描いてみる。玄関もこれを機に直す。気に入らない。窮屈だ。やはり。アプローチだけでなく、扉による舞台変換も検討した方が良いだろう。 外の世界とはしっかり、空気は繋げたままに、雰囲気を切りたい。扉もそうなると格子や障子など、反対側が透けたものとなるのではないか。 引戸がいい。しかし引いた引戸が収まる先が、無い。狭い。そこら辺をもう一度考え直す。顔が少し全体的にべとついている気がする。 気のせいではない。一週間分の荷物の再配達を受け取る。週に一回、こうやって夕方に帰れるのは良い。色々な余計なことができる。 阪神はなんとか序盤のリードを保ったまま逃げ切る。危ない試合だった。中継ぎが徐々に安定していくといい。他は概ね問題なさそうである。 ハヤシライスを適当につくる。少しずつ、よく噛んで沢山食べてみる。問題が無さそうだ。やはりこれくらい食べないと、エネルギーが僕は足りない。 余計なことを考えすぎているせいだ。もっと人生の要素を減らしていきたい。 鏡に映る自分の顔を睨みつける。悪くないと思う。殆どの人に褒められたこともないし、かといって自分で悪いと思ったこともあまりない、素敵な顔だ。 人生を生きていく中で、少しずつマシになっている気がする。顔というより表情だろうか。 僕の顔面の変遷を見る限りでは、生まれ持ったものよりは、上向いた人生を送っているようである。 部屋を少し綺麗にする。やはり散らかり過ぎている部屋は良くない。読めていない本が溜まってきている。小さなストレスだ。 この一ヶ月はしかし、なんとしてもビルの設計を仕切らないと。北岡くんがどんなに雑誌を良くしてくれても、僕がクソみたいな設計しかしなかったら、売れるものも売れない。 ゾロのチーム・ワーク。やるべきことを死ぬ気でやる。お前もちゃんとやれよ、じゃねえと殺す、だ。イライラする。 設計が上手くいっていないと。あらゆる返信を放置する。いったんそれらは置いておく。 とにかくビル。素材感。素人施工。光。ガラスを割りたい。設計がうまくいかないとイラつく。 これは全て自分のせいである。僕しかいじっていない。諸条件も何もない。実力のみだ。
2026.4.3(金)
今、土曜日の朝。出勤前。忙しくなってきた。少し生活を見直そう。
寝るのが少し遅くなっている。それにつれて、朝の起床も少し遅くなっている。ここはもう一度見直す必要を感じる。 しっかりと夜は寝て、朝起きる。家に帰ったあとに何かをしようとしない。大事だ。やはりもう少し早く帰る必要がある。 十一時には事務所を出るように心掛けよう。
部屋が散らかり始めている。床の可視面積の減少を感じる。改善の必要がある。意識して、部屋を整頓していく必要がある。 そうするとどこをどう改善したらいいか、どういう収納をつくったらいいか、というイメージが湧いてくるはずだ。 今は少し、生活が雑過ぎる。整頓。拭き掃除。ゴミ出し。意識して。週末かどこかには、家を掃除する時間を見つけられるはずだから、見つけてしっかり整備点検をしよう。 ひとまずは衣類の整理整頓だと思われる。次。
食生活について。胃腸炎と食道炎はだいぶ良くなった。また少しずつ食事量を増やしている。 次からは、「よく噛む大食い」を意識しよう。そして食べてすぐは横にならない。余計な間食は減らす。 まずい袋麺を食べ過ぎない。コンビニもなるべく買わない。周さんに連行されたとき以外。本当はその時も何も買わないのが望ましい。 自制心。習慣をつくる。
仕事について。やはり終盤に息切れしてしまうのが良くないところだ。なるべく18時か19時までに、一日の仕事を終えて、続きはおまけ、といった感じにしたい。 作業5:休憩1という割合を試しているが、上手くいったり、いかなかったり、だ。「休憩」は本当に休む必要がある。 中途半端にパソコンをみたり、手を動かしたりしてはいけない。休憩は休憩。身体から力みを弛緩させて、何もしない。歩くだけ、ボーっとするだけ。放尿するだけ。 トイレは休憩にするより、作業中でも自分のタイミングで行くのがいいだろう。これは合法的なサボりとして採用。 そうすると、サボるために、水分補給をよりこまめにする。一石二鳥だ。 気になる図面のスキャンとか、ただの整頓とか、そういうものも「休憩」ではなく「作業」の中に収めた方が、平均パフォーマンス、最終結果も良くなりそうな気がする。 ひとまずはその仮説を採用。来週はそれを適用しよう。
自分の作業について。執筆と設計。とその礎となるインプット。その制度化、習慣化。 試みてはいるが、まだ全く確立していない。そういう時期だ。芦田のように、歩いている時もいつでもメモが取れるようにしておいた方がいい。 すぐに取り出せるペンとメモ用紙。これが必要だ。気になる文章、気になる建築は即座にメモをする。 そしてそれを決まった場所にアーカイブする。ここの設計に少し気を傾けよう。現状、僕の要求に応えるペン、メモ用紙、どちらも手にしていない。 あとは読書時間も少し足りていない。朝、もしくは食事中、しっかり本を読む、ということを意識した方が良さそうだ。昼ご飯か、夜ご飯の時にはしっかり本を読む。 それが無理なときは、一日、一時間くらいどこかでまとめて確保する。ようにしよう。 それくらいは読まないと、読み進まない。インプット不足である。今は唐沢寿明の「ふたり」を読んでいる。小気味いい文章だ。 良いので、表面が少し、つられてしまう。しかし僕はそういう性格の人間ではないので、どこか違う。 僕もいつか、ひとりの状況を打破できるだろうか。無力ではある。しかし無能ではないと信じる。 どうせ死ぬんだから、やりたい事をやろう。人生は短い。あと、誰に何回会うんだろう。そしてもう、二度とは会わない人たちもたくさんいる。 まあでもそういうものだ。生きていく。とにかく淡々と。
ビル設計を今月中に終わらせて、ゴールデンウィークは北岡くんの家にこもり、あらゆる原稿を書き上げる。のが目標だ。 終わるかな…?とにかくネタは書き留めておこう。とにかく。今は設計に集中だ。ビル設計は難航している。階段を複雑にし過ぎか…? 自分の好きなものの断片を繋ぎ合わせて設計しているので、めちゃめちゃなところがたくさんある。しかしそれはそれで良さそうでもある。 ビルとは本来雑多なものだ。ひとまず、一階のアプローチを片付けてしまいたい。そして二階に子どもの勉強すペースをつくる。上階はまあなんとかなっていくだろう。 吹き抜け部分のイメージも少し曖昧だ。屋上まで無駄なく使い切る。屋根にものぼれるようにしたい。とにかく設計しなければ。 そして熱量で逃げ切る。これが上手くハマらなければ、次の号に続いていかない。頑張らないと。少し眠い。 ふたつの設計のことで脳みそがパンパンだ。しかしやる。レーゾン・デートゥル。 全てから切り離されてしまっても僕が、この世界に未だしがみついているには、建築があり、文学があるからなのだ。
2026.4.4(土)
土曜日なのに出勤する。まず朝十時に「みなとやま水族館」へ行って、ティーハウス建築を見る。 行きづらいところにあるので、なんやかんやで行った事が無かった。ツナサンドイッチをつくる周さんが遅れて来る。 バスでメモしていたら、僕は酔う。雨の土曜日の午前中には、子どもを連れた家族が顔を見せ始めている。 子どもたちの声によって、少しずつ賑やかな雰囲気が増してくる。何によって、人が集まっているのかは分からない。 しかしこれが「プレイス・メイキング」ってやつなのだろう。ブレイキング・ダウンの対義語だ。
水族館と共に旧校舎に入る花屋やパン屋、オリーブ屋…。飲食店は十一時の開店に向けて準備をしている。 中庭でそれぞれがすれ違うと、にこやかな挨拶と共に、ニ三言交わしている。 ここでは誰もが誰かと話していて、BIG Kを待つ僕だけが、雨のベンチに一人腰かけていた。
やがて周さんがのっそりとやってくる。大きいのでゆっくり動いているように見える。飛行機がゆっくり動いているように見えるみたいに。 大きな手をまっすぐ地面と垂直にして「すまん」と謝るポーズをしている。国語の教科書くらい手が大きい。 開店前のレストランなどを見学させてもらう。最後にパン屋でカレーパンを買ってもらい(ご馳走様です)、30分ほど歩いて事務所へと戻る。 バスに乗っても、25分くらいだったのだ。立派な会社の皆々は、タクシーに乗るんだろうか…?
事務所につく。さすがにやる気が出ないので、一時間ほど昼休憩。観念して仕事をはじめる。 三時からつっきーと打ち合わせをして、細かいデザインの方向性などを決めていく。 後日、つっきーが言った通りにモデルを立ち上げてみると、たしかに良かった。そして面白い。さすがである。 その打ち合わせが四時間ほどかかったので、そのまま三人で事務所の近くにご飯へ。 藤本は人間を舐めている話、重松は悩んでいるなど、同世代のおじさん建築家事情を聞く。 そしてカーンの話をする。さっき、僕たちが片付けをしているとき、打ち合わせ机の上に置いてあったカーンの雑誌を見ていたらしい。 (僕が出しっぱなしにしていたやつだ)インド経営大学の斜めに奥まっていく壁と、そこに穿たれる大きなまんまるい穴。 プラザからその建物を見ると、大きな壁の大きな穴が、暗がりへ少しずつ隠れていっているように見える。 この写真を見たつっきーは「こんなことは20世紀の近代建築で誰もやらなかったんですよ」と熱く喋る。
「これはカーンが「発見した」ものなんですよね。この大きな穴を、だれも通れない大きな穴を斜めに奥まっていく壁に開ける。 超越性…みたいなものなんだけど。これはだからね、いつか行かなきゃなあと思っているんですよね。」
「フィッシャー邸とかはさ、あれもすごいんだけど、あれがどう凄いかっていうのは、「割付」なんですよね。割付。敷地に対して、建物を割り付けている。 そうしなきゃさ、あんな風には建てられないんですよ。あの敷地に流れる川に対して、どうやって割り付けるか。フィッシャー邸はそういう凄さがあるよね。」 「ソークはさ、これは俺が発見した事なんだけれどさ、まだ誰も言っていないことなんだけれどさ、「シンメトリーのリズム」っていうのが本当にすごいことなんですよ。 あれはさ、中庭を挟んで左右対称に建物が建っている訳じゃないですか。だからさ、「自分がここにいて心地よいと感じている」という時、同時に「反対側にいるもう一人も自分と同じように心地よいと感じている」っていう風に、凄い自然に思えるんですよ。 こうさ、シンメトリーっていうのは、例えば平等院鳳凰堂でもヴェルサイユ宮殿でもさ、古今東西いろんな建物があるけれど、シンメトリーの中に「共感のリズム」があるっていうのは、カーンが見つけ出したものであり、僕が見つけ出したものなんだよね。」 「キンベルもさ、ヴォールトっていうのは伝統的な建築様式でさ、それはロマネスク建築みたいに往々にして暗かったわけですよね。 でもカーンは「明るいヴォールト天井」っていうのをつくろうとした。そういうイタズラみたいなものを仕掛けた。 てっぺんにスリットを入れて、反射機構を作って、天井に光をまわす。これもね、やっぱりすごいですよ。」 「ダッカもさ、あれも中心にある議事堂とその周りの建物のあいだの回廊がさ、凄い良いと思うんだよね。おれは死ぬ前に一度見てみたいと思っているんだけど、死ぬ直前に見ても何にも生かせないし、ちょっとどうしよっかなぁって思っているんだ。」
おそらくこんな感じの内容ではなかったか。やっぱりカーンっていうのは、本当にすごい建築家なのだ。あのインテリジェンスなつっきーも、激しく興奮していた。熱く喋り過ぎて、降りてきている三日月みたいな目のかたちをしていた。 僕の「うーん…!!!」という相槌も大きすぎたらしい。忘れられて、机の上で小さくなっていたご飯とお酒、は室温の方へ引き寄せ有られていた。
膝を痛めているつっきーがゆっくりと駅の方へ向かっていくのを見送り、僕たちも解散した。 このとき僕は、「二年以内に社員旅行でインド経営大学に行こう。それなら社員になってやる」とか啖呵を切ってしまったが、まあそれはもういい。 帰り道、電車に乗っていると、突然高雄さんから電話がかかってくる。「火事ですか、救急ですか、探し物はなんですか」みたいな唐突さである。いつも。 高雄さんと二時間くらい電話して(書くのがめんどくさくなってきたので割愛 すまない高雄さん)、芝﨑くんの家に洗濯しにいき、洗濯機がまわっている途中での寝落ちする。 芝﨑くんに僕の部屋まで連れて行ってもらい、洗濯物も干してくれる。芝﨑くんが干し終わるのとほぼ同時に、僕も疲れて寝た。 ありがとう芝﨑くん。
2026.4.5(日)
とにかく働いた一日であった。結局週末も殆どフルで働いてしまった。一緒に働く人や、生徒がそばにいなかったら、全く楽しくない一日であっただろう。 でもまあ、関係ない音楽の話とか、車の話とかを聞かされたお陰で、少しはましな休日になったような気がする。良かった。 朝起きると、既に日はだいぶ高くへ登っている。八時だった。慌てて布団からでて、シャワーを浴びて、キッチンを片付ける。 カーテンレールには、昨日芝﨑くんが干してくれた洗濯物が、息をひそめ並んでいる。 窓を開けると、すぐ向かいのマンションのベランダで、女の人が洗濯物を干している。寝癖が気になって、少し髪を撫でつける。 今日の作業を書き出して、塾へ向かう。 少し作業をすると、もうあっという間に将棋教室へ向かう時間になってしまう。乾いた靴下が無かったので、裸足で将棋教室へ向かう。 みんな桜を見に行っているからか、生徒が今日はほとんどいない。生徒と難問である三手詰めを必死に解く。 生徒が少ないので、早めに切り上げ。塾長(理数学院/西川さん)に連れられてうどん屋へ。うどんを頬張る。僕は鶏天が乗ったカレーうどんの大盛。 予想していた大盛のサイズ感を遥かに上回る、武将の兜みたいな大きさのカレーうどんが出てくる。 しかもこのカレーうどんは、しっかり片栗粉を入れているようで、トロみが激しく、そして片栗粉による保温のために、ひたすらに熱い。 常軌を逸したこの食べ物と格闘する。横には理数学院のバイトの女子大生もいるが、格好つける余裕なんてまったくない。 汗をかき、鼻水を垂らし、咥内をただらせながら、必死にカレーうどんを口に運ぶ。 塾長と女学生に遅れること十分ほどでなんとか完食。お代は塾長が払ってくれる。ご馳走さまでした。
満腹すぎて立っているのもしんどいが、すぐに寝転がってまた胃腸炎になるわけにはいかない。 タダで座ることができて、他人の眼が存在している場所はどこだろう。ということで、不動産屋へ向かう。 ノックもせずに中に入り込み、皆の仕事に関係なく、背もたれ付きの椅子に腰かけてお喋りをする。 来客まで一時間ほどあるというので、40分ほどそこでお喋り相手をしてもらう。飴と紅茶を貰う。こう書くと、たかってるみたいだ。
不動産を後にして塾へ。さすがにそろそろ…と作業を開始する。みっちゃん教室で教材作成のアノテーションの素材準備、そしてティーハウスのパースのためのモデリング作成。 ときどき寝落ち。ときどき、鶴崎いづみ「私のアルバイト遍歴」を読む。芦田が五時半くらいに名古屋から帰ってくる。 青い服に、青いズボンを履いている。春だから。必死にモデリング。芦田は十時半頃に帰宅。僕も十一時頃になんとか仕事を終える。 一時間ほど、「アルバイト遍歴」を読みながら夕飯。百メートルほどの帰り道を歩いて帰る。 明日の昼夜のための米を二合を炊き、シャワーへ。米が炊けた音を聞いたあと、まもなく寝落ち。蝶々の羽音のような静かさの中で、週末が終わった。 そういえば矢野さんは、この前の喫茶店に朝から行ったようだ。良かった。 きっとそこで矢野さんは、脱毛してツルツルになった顎をしきりに撫でながら、奥の小さな席に大きくなった身体を縮こませて、若林のエッセイを読んでいたのではないか。 少しは良い休日になっているといい。
2026.4.6(月)
「バムとケロ」の小さいやつらが、好きだった。本題とは全く関係ないのに、そういうのがページの片隅にしっかり書き込まれていると、小さい僕は、興奮(この頃は高揚くらいが正しいかもしれない)しながら、安心した。 この日のことは殆ど忘れた。打ち合わせがあったので、それに向けて資料作りをしたりしていた気がする。周さんは堂々と遅刻していった(やむを得ず)。 終電を待つホームで、日付が変わり誕生日を迎えた。ホームには僕以外、誰もいなかった。電車ももう来ないのではないかと思えるほと、誰もいなかった。 芦田が誕生日ということで、アイスを奢ってくれた。美味しかった。改めて、芦田の生誕祭と僕の1人きりの誕生日を比べてみると、僕たちは本当に友だちなのか…?と分からなくなってしまうくらい、異なっている。 でもあれは、喜びをおすそ分けしているってことだもんな。良い事だ。僕はひとりでの喜び方が分からなくて、結局最後は悲しみにしてしまった。
最近、面倒くさくなってきて、空いている日付に適当に書くようになってきてしまった。生活の乱れでもある。 ちょうどここのスペースが空いていたので、僕が27歳の目標として掲げた習慣の目標について書いておこう。やはり今日は少し体調が悪い。力が何処からも湧いてこない。こういう日は、淡々と書くに尽きる。 他にできることは何もない。外も曇っていて、少し肌寒い。散歩に出たいという気持ちにもならない。今日は家で過ごすような気がする。これを書き終えたら、昼飯を食べよう。
①一日6-7時間の睡眠
これくらいは寝ないとやはり普通に仕事のパフォーマンスの水準に達しない。不安定なパフォーマンスになる。 十一時に退勤して、十二時半就寝、六時半起床を最低ラインに据えたい。でもだいたい終電にいつもなっている。 でもまあ仕事が終わった瞬間に飛び帰っちゃうのも周さんに悪い気がするし、いつもなんやかんやで喋ってしまう。 こういう喋り時間をカットした方がいいのかどうなのか、僕にはちょっと分からない。ひとまずは昼寝も駆使しつつ、六時間寝る。 疲れたら、すぐに寝る。ダラダラする仕事が一番よくない、と思う。特にティーハウスはノンプレッシャなのだから。 疲れたらすぐ寝て、そして常に、元気な状態で働く、という意識で取り組みたい。
②一日7000歩くらい歩く
これは結構難しい。だいたいティーハウスで働いている日は、5000から6000歩代に留まっている。もう少し運動を心がけた方が良い。 本当は一万歩くらいが理想だが、ひとまずは七千歩。最近はトイレから遠回りして帰っている。行きに遠回りはしていない。 あとはお昼に一度散歩に出ると良いのだと思う。しかし意外と一時間休憩って、時間が足りない。何かしようとすると、すぐにあと五分みたいになってしまう。 電子レンジで温めている時間が地味に長いこともその原因だ。休み時間の有意義で立体的な一時間の過ごし方、というのは非常に難しい。 北岡くんや西浦さんが就職したら、雑誌で昼休み特集を組みたい。みんなで一緒に、最高の一時間を考え出そう。
③一日2リットルの水を飲む
これも結構難しい。1リットルはだいたい確実に飲む。1.5リットルもまあまあ飲む。しかし2リットルはなかなか大変だ。 そもそもこの2リットルって、コーヒーとか、食事の時の汁物とかはカウントしちゃいけないんだろうか。ちゃんと純粋な水を2リットル飲む必要があるのだろうか。 僕の百均水筒は500mlくらいおそらく入るので、午前で水筒一本、午後で水筒1本か2本、という感じの水分摂取になっている。 そうなると、朝起きてすぐの水分補給、ここで200mlくらい飲んで、あとはWC帰りとか、お皿洗ったあととか、そういう節目で飲むようにすれば、なんとか2リットルはいけそうな気がする。 そもそもちゃんと運動しようね、という気もするが、ひとまずは水を飲む。という健康法で手を打たせていただきたい。おちんぽ!!!!!!ふぅ。
④毎日100頁読む
働き始めてからの僕の読書量を鑑みるに、これがおそらく、習慣化できるギリギリのラインである。百ページ。 行き帰りの電車で10頁ずつ。昼ご飯か夜ご飯のときに30頁くらい。コメダで10頁くらい。これで60頁。多分今は、これくらいが最低ラインになっていると思う。 少し読み終わるまで遅すぎる。本当は書く時間を読む時間に充てればいいんだけど、そうもいかないので、あと40頁分をなんとか捻出する。 まずはうんこする時間である。うんこする時間に(最近は便通が悪くて意外と時間がかかってしまっているので尚更)、そこに本を持っていけば20頁くらいは一日で稼げると思う。 どうせツイッターとかを見るだけなのだから、本を読んだほうがいい。そうすると、あと20頁。もうひと仕掛け。 ここで思いついたのが、寝る前に官能小説を読む、という作戦だ。これは大発明である。いいことづくめ。 まず第一に、読書量の確保。さすがに5頁でイクほど早漏ではない。20頁くらいは読むだろう。どんなに疲れていても、どんなに帰りが遅くても、夜、ひとりで寝る前に、若いア男性トリエ所員は致してしまうものなのだ。と思う。おそらく。 普通にシコラナキャいいじゃん、という気も僕もするが、それは結構、難しい。リヴェンジ・オナニーしてしまう。長時間労働に対するささやかな抵抗としてのオナニー。 これだけはさせて欲しい。でも、ここでスマホやPCを開くと、その流れでダラダラいじってしまう。これは良くない。ので、官能小説で致す。 二つ目のメリットが先に出てきてしまった。二つ目の良い事は、「スマホPC類を就寝前に触らずに済む」だ。 そして最後が一番大事なのだが、表現の勉強になる。気持ちいい、って結構言い表すのは難しい。 それを「彼の手のひらが腰のあたりにゆっくりと、それでいて確かに押し付けられた時、陽子は触れられたところからお湯が流れ出るように、輪郭を持たない熱量の塊が爪先へ、脳天へと拡がっていくのを感じた」とかみたいな感じで、官能小説は上手に表現している。 学ぶものは多いにある。若林も小説を書くにあたって、運転中にオーディブルで官能小説を聞いていたと言っていた。 官能小説を読もう。ひとまずメリカリでよく分からない五冊セットを仕入れた。届くのが楽しみである。27歳はノーポルノ。オール官能小説でいきたい。 そのうち、官能小説についてそれなりの体系的な知識を有しているようになりたい。稲田が和洋様々なセクシー女優を知り尽くしていたように。
疲れた。まだあと15個くらいあった気がするけど、ここで中断する。あとは週一とか、月一とか、年一とかのものだ。ひとまずは、毎日である。 もっと健康的に病みたい。これは矛盾してはいない。もっと安定して高い水準で精神を病むことで、良い文章が書けるようになる気が、人間としての味が出てくるする。 そのためには、健康的な習慣とほどよく健康な肉体が必要だ。疲れた。昼飯を食って、昼寝をする。
2026.4.7(火) (27歳の誕生日)
眠りが終わったので、目覚める。
空はまっしろに曇っている。目を覚ますと、その鈍い、あまり軽やかさのない光が部屋を漂う朝だった。 母親と父親から、それぞれ一通ずつおめでとうのメッセージが入っている。二人のメッセージは二分違いでメッセージを送っていている。 絶縁したくせに、似た者同士なのかもしれない。昨日脱ぎ捨てた服をそのまま着る。昨日、こぼしてしまった缶詰の汁のあとが、黒いシャツについている。 炊けた米をタッパに詰めて、家を出る。玄関扉をあけると、とても硬い鉛筆で書いたみたいな薄い手摺の影が、床に落ちている。 その影えお踏みつけて、家を出て事務所へ向かう。三十分ほど寝坊してしまったせいで、ホームには電車を待つ人がたくさん並んでいる。 白い雲が空中に張り巡らされているため、いつもよりも見える景色が、明るくはないけど眩しい。真っ白な壁に描かれた絵のように街が見える。 六甲道から西に出勤する場所なんてそんなに存在しているだろうか。みんなで少しずつ身体を小さくして、脱衣場のような熱気の車両へと乗り込む。
誕生日である。誰も知らないし、祝うべきこともないが、誕生日である。 根本的には祝福されていない。しかし、自分で自分の生誕を祝う必要がある、と強く感じる。 誰も祝う人がなく、祝うべきことがないからこそ、自分で祝わないといけない。 ケーキ屋が閉まる前に事務所を出なければならない。そして街で、僕が生きる理由を探し出さなければいけない。 生きる理由がどこにもない。別に死ぬ理由もないけど。これからも一年に一回、誕生日が来ると思うと、とても怖い。 電車の窓を不意に横切る架線柱のように、容赦なく同じリズムで僕に訪れ、そして去っていく。 目的地もなく、誰も乗り合わせていない電車に乗り続ける意味なんて、何か一つでもあるのだろうか。 僕は無いと思う。別れが全てであった。そして考えてみると、また誰かに会う、みたいなのが全く想像できない。 次、何の用事で、何をしゃべるために会うんだろう。何をしゃべるんだろう。本当になにも思いつかない。 今でも仲良くしてくれている人たちとも、飛んで、一回会って、そしてそれが全てであったように感じる。 その一回のニュアンスが重すぎて、次の軽い会い方が思いつかないだけかもしれない。
おっちょから「おめでとう(風船の絵文字)」と送られてくる。目元から鼻頭へと流れ出るものがある。 僕が考えているよりは、事態は深刻ではないかもしれない…。ありがとう…。 祝福されていない…と叫び散らしていたけれど、おめでとうと言われてしまって、ここからどう書いて良いか、分からなくなってしまった。 ひとまず溜まった日記の消化をしよう。でも冷静になると、生きる理由なんて、死ぬ理由なんて、別に世界中のどこにも存在していないよね。 考えるのは、良くないことだ。どんどん間違っていってしまう。ひとまずは落ち着いて、生まれた日を、ここまでの人生を祝福しよう。 良いこともかなりあった。これからそれがあるかは分からないけど。暇だったら、人生でクソ良かったことでも書き出してみようと思う。 何が一番楽しかったかな。保育園の頃のドロケイ、小学生の頃、タケルくんの家で遊んだレゴとかプラレール、希の賢い先生と賢い生徒の掛け合い、金本がホームランを打って勝った日の次の朝。 中高の頃の部活、トレ室やプラザでのおしゃべり。一個上の先輩たちの掛け合いとか、死ぬほど面白かった。中二の21Rのやつらとやった諸々の謎行動、駒場館で稲田がずっと歌っていた2001年近鉄の応援歌(モノリスみたいだ)。 大学の頃、トクちゃんの半分だけ汚れたカレー皿、芦田が昔の彼女と付き合っていた時代に三人でやった真冬のポスティング、おっちょの運転と車で見に行った建築巡り、イワシとハッシーの三人で喋った夜とか(ハッシーは当時警察官と付き合っていたとかような気がする)。 もうちょっと丁寧に思い出したら、もう少し登場させられる気がする。卒業してからは、特に楽しい事は無い。なんとか生きている。 どうなんだろう。僕は自分の運命を乗り越えられているだろうか。 僕は約束された将来を壊滅的に損なったとしても、自分の定められていそうな行先とは違うところへ向かいたい。 遺伝子を精神が上回りたい。それが人間として生まれ、生きる唯一の醍醐味なのではないだろうか。 勤勉なのは蜘蛛に生まれた時だけで良い。蜘蛛に生まれたらば、ただ巣を張って、待つのみである。あとは蟻地獄にも我慢強さは必要だろう。 僕はやっぱりどうしようもなく間違っているのだろうか。分からない。でも、こうやって生きるほかないのだ。 でもこうやって思い返してみると、男同士で気が狂うくらい非合理的なことをするのが、やはり人生で一番楽しいんじゃないかという気がする。 働き始めてから、合理的に生きようとする力を受けすぎて、持ち前の非合理精神を失ってはいないだろうか。 信号がチカチカするのを待ってから全力疾走したり、家の中で絶唱して警察を呼ばれたり、漢字辞典を持って家出しようとしたり、ノートに間取り図を描いて破り捨てられたり、友だちの家のTVに濡れた雑巾を貼りつけたり。 そういうのがどんどん失われていないだろうか。生活が成り立つかなんて、本当は一ミリも重要ではなくて、とにかくなんの意味もないことに全知力体力を注ぎ込むことだけが、最期の一瞬に思い出せることなのではないだろうか。 優しさだったり、暖かなふれあいも素敵ではある。しかしあまり思い出さない。僕にとってそれは重要度が高いことではないんだ。 でも、優しい人ですねと言われたことを、死ぬときに覆い出す人なんていないだろう。そういう乱暴な一点からのみ考察すると、優しさには何の価値もない。
27年目。28年目?よく分からないけれども、ひとまずは神さまと一年契約の更新だ。握手。ありがとう。 もう一年、生きてみる。非合理精神こそが人生の核であると分かった。ひとまず。とりあえず今日は夕方に仕事を終わらせて、 三万円くらいを夜の街で使い切ってみよう。そして家まで三時間くらいかけて、歩いて帰ろう。今日は阪神、勝つと良い。 誕生日は祝われるものではなくて、生かしてくれた人に感謝を伝える日なのかもしれない。 しかし芦田が毎年、生誕祭を開いていることを、誕生日に思い出してみると、本当に頭がおかしいとしか思えない。戦争か宗教に発展しかねない自己肯定感の大きさだ。 僕はひとりでやろう。生誕祭。生まれてから死ぬまで、ずっとひとりぼっちだもんね。やっぱり。手下のいないガキ大将、たらねば。
周さんが昼ご飯にインドカレーを奢ってくれた。一緒に働いて分かったことは、周さんは思っていたより時間にルーズで、思っていたよりツッコミが上手な人だということだ。 背の高さにはだいぶ慣れてきた。しっかりめに笑うと、鼻の両端が持ち上がって、鼻の穴のまるさが正面からも少し見える。 しっかり先輩をしてくれるので、僕もそれに応じしっかり後輩感を出してやらせてもらっている。僕より体力がある。毎日十二時を超えるまでやっている。 サンドイッチをいつもつくって持ってきている。お米は食べていない。バイトの女の子と喋る時間が少し長すぎるんじゃないかという気もする。 総合すると、社会協調性に富んだ巨人、だ。通知表にもそう書かれていたんじゃないだろうか。途中までは僕も周さんと似た人間な気がする。 しかし最後がどうしようもなく違っている。脱線するくらいのカーブで曲がっていくみたいに。
2026.4.8(水)
昨日とは打って変わり、とても良く晴れた気持ちの良い日和である。 昨日は誕生日だからという浮世離れした理由で、何の予定もないままに六時に退社した。 いつもより六時間はやい商店街には、人が溢れていて、店が開いている。僕が知らなかったお店が色々やっている。 ジッポ屋を見つけた。北岡くんへのプレゼントで良いかもしれないと思って覗いてみる。古本屋も何軒かあり、それぞれを覗いてみる。 立ち止りながら、一時間くらいかけて、大丸まで到着する。まずはケーキを買う。 白大理石が照明を反射している。さまざまな香料を混ぜた匂いが漂うコスメエリアを足早抜ける。 レセプションでは受付嬢が、笑ったまま化粧をしました、みたいな顔でゆっくりお辞儀をしている。 僕に負けじ劣らずな貧相な格好の中年女性が熱心に化粧品を眺めている。 地下コーナーへ降りて、広大な食品コーナーからケーキエリアを探す。百貨店の食品コーナーはどうして必ず地下一階なのだろう。 少々彷徨って、無事にケーキ―エリアを探し当てる。僕はショートケーキが好きだ。 まだショートケーキで留まってしまっているといった方が正確かもしれない。これじゃあまるで、ケーキを満足に食べたことがない家みたいだ。 そういえばお母さんの誕生日のときに、ケーキを食べたことがあっただろうか。僕たちの誕生日には、辛うじてだがケーキぽい何かがあった気がする。 ショートケーキだけで4種類くらいあった。少し悩んで、価格とサイズが真ん中くらいのものをひとつ選んで注文する。 百貨店でショートケーキを一切れだけ買う人間はどれほどいるのだろう。店員さんの必要以上の笑顔はどういった意味を示しているのだろう。 地上へ戻ると、暗くて、寒かった。三ノ宮へ向かって歩く。 途中でユニクロによって、緑の長袖の服を一着買う。店員さんの名前が不思議な名前だったので、何て読むのですか、と聞いてみる。 次は本屋だ。高雄さんがくれた3000円の図書カードを携えて、駅前の大きな本屋へ。 世界には本当に沢山の本がある。それは、人間が認識できて切り分けた世界のひと部分だとすると、この世界にはまだまだ広大な海が広がっている。ということだ。 僕は死ぬまでにあと何冊、本を読めるんだろう。何を知れるんだろう。 新潮文庫の夏目漱石「こころ」「虞美人草」と手嶋保の「住宅詳細図集」を買う。「カラマーゾフの兄弟」を買おうと思ったが、全巻揃っていなかったのでやめた。 そしてまた、家までとぼとぼと歩く。ケーキの袋を持っているのが少し恥ずかしい気がする。 家に帰って料理をする気力は無さそうなので、家系ラーメン屋に立ち寄る。麺を大盛にして、ご飯を二杯食べる。 ホール担当の女性が、厨房の男性から説教されているのが聞こえる。このあとケーキを食べきれるだろうか。
三ノ宮からJR線に沿って、人気のない道をとぼとぼと歩いて帰る。ときどき桜が咲いていて、ときどき人とすれ違う。 写真を撮る。結局、僕ひとりの人間の中には、建築、小説、写真くらいしかない。食べ物もショートケーキと家系ラーメン。そして徒歩。 トホホ…。想像できる範囲が、これくらいしかないのだ。ベビーベッド柵の中から家の天井を眺めていたころから、殆ど何も変わっていない。 実に貧相なラインナップである。街で三万円使おうと思ったが、使い切れなかった。結局八千円くらい。 でも例えば、僕じゃない誰かが、今日の僕みたいな一日を過ごすとなったら、どんな風になるんだろう。それは興味深い。 雑誌でそういう企画をして、聞きだしてみてもいいかもしれない。まあでもこういうのは、意外と盛り上がらずに終わる。不思議と。 何故だかは分からない。
都賀川まで歩く。 今日は僕が生まれた日、というよりは、親が親になった日という事の方が重要かもしれない。僕は一応長男なのだ。そして一人っ子ではない。 家族にも愛されていた。と思う。一人っ子のように見えるのは、ただ僕が、家族に親愛の情を抱けていないだけなのだ。
線路沿いを歩く。飛び込もうかと思案するが、柵が高すぎて、僕の荷物も重すぎたので断念する。 やがて川沿いに至る。川沿いには桜がいやったらしく咲き過ぎている。川の傍らに腰を下ろして、箱を開いてケーキを取り出す。 一切れのショートケーキは箱に対して小さすぎて、スペーサーが何個も入って箱の中を満たしていた。 河原の平らな石に腰を下ろして、街灯に照らされている桜を見る。ケーキを食べる。特に感慨はなかった。ただケーキを食べていた。 立ち止って座り込むと寒い日だった。子どもの頃、食べきれなかった弁当を、マンションの駐車場の陰に座り込んで、なんとか食べてから家へ帰っていたことを思い出した。 背中を丸めて、人工石に腰掛けて食事をしていると、そんな昔のことを思い出した。ぬるくなったり、冷たく固くなったりしていた、小学生が盛り上がらないゆかり味のおにぎりを思い出した。 そう思うと、ショートケーキは不味くまではならなかったが、特別美味しいものでもないように感じられた。川の横にできた溜まりには桜の花びらが、死んだオフィーリアの絵みたいに浮かんでいた。 あるいは逆かもしれない。
二時間ほど歩いて家へ帰る。布団で「こころ」を読みながら、日が変わり誕生日が終わったことを確認してから寝た。 消灯した部屋で一応、ハッピーバースデー・ソングを自分で歌ってみた。ハッピーバースデー・ディア…その続きをなんていえばいいのか分からなかったので、そこで諦めて、そのまま寝た。 枕元から見える窓枠に、干したバスタオルみたいに、半分に折れた自分がかかっている姿を想像してみた。 いつも長距離歩行するたびに思うのだが、結局何万歩歩いても、辿り着きたい場所には一向に辿り着けていないという気がする。 生きる理由や死ぬ理由は、お金では買えないみたいだ。もう誕生日はいい。そういえば今日は倉橋の誕生日である。毎年祝っていたが、今年は連絡先がなくて祝えない。おめでとう。 倉橋みたいに僕もなりたい。しかしやっぱり、どうしても全く逆の方向に行ってしまう。難しい。
2026.4.9(木)
昨日のお昼過ぎに大家さんから電話がかかってくる。うんち中だったので、踏ん張り切ってから、折り返す。 「お寿司は食べますか?」と大家さんがゆっくり喋る。
「食べます。」大家さんが喋り終わるよりも早く、僕が言い切る。 十二時過ぎでもいいから取りに来てねとのことだった。疲労や睡眠不足による低いパフォーマンスの労働ではあったが、迫る締切に追われて、なんとか終電まで働く。 ノックをして、大家さんの部屋に入る。ダイニングで何かのTVを見ていた。お寿司とソーセージ、いちごと靴下と缶ビールを貰う。 三十分ほど、大家さんが入院していたリハビリ病院のボケ老人の大家さん観察記を聞く。大家さんは、おそらく90歳近いだろうが、聡明な人だ。 判断力も、思考力もしっかりしている。足が少し悪いだけだ。ボケ老人の話を聞いていると、やはり男性老人の方がボケている率が高い気がする。 どんなに自分の仕事が大変でも、リハビリ病棟に比べれば生易しい仕事な気がする。 次、病院に行く時にはまた買ってくるから、またその日もいらっしゃい、と言ってくれる。本当にありがたい。 女性に根付く母性由来のケア精神のようなものは、やはり女性からしか立ち上がってこないものなのだろうか。 僕が社会の外側に落ちてしまってから、少なからずそういう女性からの純粋な善意を受け取っている。 男性からももちろん少なからず受け取っているが、やはり種類は違う。なんだろう。必要なものを必要なときに、みたいな。適切なのだ。非常に。 女性から受け取るものは、適切さよりも、精神的な寄り添いのようなニュアンスが多く含まれていると思う。いちごなんて、別に要らないと言えば要らないのだが、でも四月だからいちごなのよ、みたいな。 僕は変なことを言っているだろうか。今日中に食べてねと言われたが、誕生日の日に暴食しすぎて胃がまた悲鳴を上げているので、翌日に回すことにした。
自分への誕生日プレゼントとして「カラマーゾフの兄弟」の全巻セットをメルカリで買った。
この日はどうしても体調が上がってこず、家に引きこもっていた。 あんじゅホームにも、塾の椅子と雨樋照明の商品化にも結局行けなかった。芦田が僕のアイデアを良きに計らってくれることを信じるしかない。 気づいたら芦田の商品として売り出されていたらどうしよう。そういえばトロフィもなぜか塾に飾られている。 まあいいか。疑心暗鬼になっている場合ではない。おそらく。そんな体力はどこにもない。しかしあらゆる事象があとから報告されている。 シンプルに忙しいからだろうが、そういうのは気になるものだ。オフィシャルアンオフィシャル、全てが知らされていない。塾に行ってないだけだろうか。分からない。 日記を書く(2h)、昼飯(1h)、昼寝(2h)、ビル設計(6h)、夕飯づくり(1h)、みたいな生活をしていたと思う。 そしてやはりなぜか、ずっと体調が優れなかった。何が原因かはあまり分かっていない。食べ過ぎ、寝なさ過ぎに身体がついて行かなくなっているんだろうか。 現在の0700-2330の生活が、今の僕には許容活動時間を陵駕しているのかもしれない。あらゆる負担をそぎ落としていかなくてはならない。 SNSはなるべく見ない。LINEの返信もあまりしないようにしている。限られたエネルギーを愛想よい返信に費やす余裕がない。 今も朝八時半なのに、信じられないくらい疲れている。どうしてしまったんだろう。お腹の方もあまりよくないが、首より上の頭とか、フクビクとかも状態不良な気がする。 本当に困った。脳みそもあまり働かない。何も考えずに書けるほどの実力がまだ僕にはない。十年くらい書き続けたら、体調不良でもしっかり書けるようになるんだろうか。 ひとまずは体調を戻して、そして少しやはり削れるものを見つけ出して、削ろう。減らすべきは仕事だ。稼ぎも減るが仕方ない。 時間の使い方をもう一度見直さないといけない。しっかり昼寝をしたら、ましになるのかな…?やっぱり朝はなんならもっと早くしたい。夜は出来ればもっと早く帰りたい。が、それは絶妙に難しそうだ。 やはり若いうちは徹夜しまくるものなのか…?僕はもう、徹夜できそうな気配がしない。睡眠時間が少しでも短いだけで、如実にパフォーマンスが低下する。 こんな調子でやっていけるだろうか…?
兎にも角にも、体調を戻す必要がある。足し算ではなく引き算で。僕もそろそろ、引き算を覚えないといけない。いつも、どんどんと足してしまう。 世界が広大すぎる。こんなに限定された人生を送っているのに、それでも世界ははてしなく広大だ。・・・ とにかく毎日のノルマの数字を消化する。100頁、2リットル、7000歩、5枚。それだけに集中。だ。
2026.4.10(金)
昼頃に強く降りつけていた雨は、夕方頃に止んだ。仕事に飽きた僕は小便ついでに、商店街に降り、そのあたりを散歩した。 商店街の道路は、アーケードがあるのにびしょびしょであった。僕は夕日を見たくて、角を曲がってアーケードの外に出た。 僕は、雨上がりのあとの晴れ間、その時の空気の感じ、湿り気がありながらもさっぱりとしているあの空気の感じが、好きだ。 水たまりに青空が少しばかり写っている。座り続けて固まり切った脚をほぐすために、注意を向けて左脚と右脚を交互に出す。 雨によって、何かしどろもどろは洗い流され、そのかわりに新しい何かの予感が、あたりには拡がっていた。今日は金曜日だった。桜が咲いて、最初の金曜日の夜だった。
街のあちこちでは、安いスーツに身を包んだ若者たちがそれぞれの未だよそよそしい距離を縮めようとしながら、中々帰らずに道に拡がっていた。 改札の前では小学生の子どもがいてもおかしくなさそうな男女が、冬のロシア遠征みたいに、前にも後ろにも進めずに佇んでいた。 40歳くらいになっても、お持ち帰るか帰らないかという夜があるということに衝撃を受け、僕は改札を通り過ぎたあとも、何度もそのふたりを振り返った。 女性の方も男性の方も造作のすぐれない風体であった。そのことは余計に僕の理解の範疇から遠ざかり、それ故に僕はより興味関心を感じた。 最終電車にも顔を赤らめた多くの人々が少し気を、そして身体も少し大きくしながら乗っていた。その湿度によって眼鏡が少し曇った。 歳の差のある男女二人組が、僕たちの近くの座席に座っていた。若い女性がかなり身を乗り出して、少し年配の男性に何かを必死に話し続けていた。 若い女性は僕たちと同じくらいの世代の人で、おじさんは40歳くらいだった。おじさんの顔は半分以上が髪や髭や眉などの黒に埋め尽くされていた。 なのに女性はその黒づくめに対して、本当に身を乗り出し、視線をその黒の茂りへしっかり向けて、ずっと喋り続けていた。 おじさんは話を相槌も打つ暇なく、茂みの中に身を縮こませていた。 僕たちはそれを不思議な気持ちで眺めていた。彼女の家へ向かう終電を逃した周さんは、僕と同じ電車に乗り込んで、ひとまずの漸近を試みるようだった。会いたいらしい。 六甲道で別れるとき、周さんは「また明日!」と言って大きな手をあげた。
金曜日の夜の浮かれた車両には不適切な言葉だった。僕は明日また僕たちが会うという事実にひどく驚き、「また明日…!?」という一言を残してホームへと降りて行った。 駅前のロータリーには、外壁補修の作業員たちと、それに必要なクレーン車のような特殊車両が集まっていた。 一年前の、働き始めて最初の金曜日の夜を思い出してみた。別に何の変哲もなく、終電くらいまで働いたんだろうと思う。 なにも思い出すことはなかった。事務所の六甲道に住んでいる、先輩所員についても考えてみた。 そのひとはこの前結婚して、僕の家からそう遠くないところに、奥さんとふたりで住んでいるらしい。 先輩所員の朝10時半に六甲道を出て、20時前にはふたりの家に戻る一日と、朝7時に六甲道を出て、24時半にひとりの家に戻る自分の一日を比べてみた。 そのふたつの事象が、この地球のおなじ一日の中で起きていることとは僕は思えなかった。この平らに感じる地面も、本当は丸いんだ、としみじみ思った。 僕の部屋から数百メートルの距離にある先輩所員のオカベさんの部屋のあいだの地面は、平らではなく丸いんだ…と思った。
街の浮かれに釣られて、家に着いた僕も、少し元気になっていた。朝から読んでいた「蟻鱒鳶ル!」を読み切ってから寝ることにした。 暇なので袋麺を茹でて、そこに贅沢としての生卵をおとす。食べ終わったら、皿も洗わずに本を読み進める。 今頃、周さんもなんとか彼女に家に辿り着いて、無事にセックスしているんだろうかと考えながら、ちろちろと本を読む。 岡啓輔は最初からああやって、自主施工みたいなものばかりに興味があり、建築家なんてチットモ知らない、みたいな感じだと思い込んでいたが、全くそんなことはなかった。 あとしっかり、一級建築士である。自分でコンクリートを配合すると、コンクリートの水セメント比を自ら決めることができる。 岡はダムとおんなじ水セメント比で打っているので、あのコンクリートは200年、持つらしい。70センチの高さごとに打設していることや、型枠に農業用ビニルを巻いているなど、面白いことがたくさん載っている。 まだまだコンクリートには可能性があって、その歴史は始まったばかりに過ぎないんだ、と書いてあった。 コンクリートの可能性…。石としてのコンクリート。ビルのつくり方…。明日この興奮とアイデアは丁子くんに話してみよう。 夜更かしの影響で、土曜朝、現在途方もない睡魔が襲ってきている。もうこれ以上書けない。
そういえば、阪神は勝っていた。前川の逆転タイムリー。そういえば前川貯金をしようとしていた秋頃のアイデアを思い出す。 あれ、やるか。ついでにピッチャーでもひとり、期待の若手を貯金対象選手に指定しよう。僕は基本的に左利きをひいきしているので、そうなると門別だろうか。 頑張って欲しい。今からひと眠りして、そしたらその貯金スプレットシートをつくろう。今年はいくら貯金ができるだろうか。今からとても楽しみだ。
2026.4.11(土)
先週の土曜日。ちょうど一週間前。何をしていただろう。完全になにをしていたか、忘れてしまった。 多分、金曜日の夜は調子に乗って「蟻鱒鳶ル」を夜中の三時まで読んでいた。 でも朝はいつも通り起きて、七時過ぎのコメダに行って、三四時間作業をして、そのあと仕事をしにティーハウスへ行った。 春のあたたかい陽気につられて、のんびりぼんやり仕事をしてしまった。しかし実際のところは、平日の曇りの日でも、ダラダラ仕事をしているという説がある。 ティーハウスの色々な問題は、おそらく周さんを介してでしか意思決定がなされないので、周さんが全ての意志決定に関与しなければならない、という現状によって起きている。 周さんは土曜日も日曜日もずっと働いている。身長も193センチくらいまで小さくなっているような気もする。 だいぶお疲れだ。お疲れ様です。今日は一緒にカレーを食べに行った。これから二週間に一回くらいは一緒に外食、してみよう。 自分を幸せにする技術を、少しずつ磨いていく。食べ過ぎない。丁寧に、美味しいご飯を食べてみたりする。 24日に提出だから、そしたら前から言っていたハンバーガー屋にふたりで行こう。
能力というか、それに類するものっていうのは、何て言ったらいいか分からないけれども、難しい。 誤解を恐れずに言うと、上司のたびに、色んな働きづらさがある、みたいな、そういうありきたりでツマラナイ話になってしまう。 文句言うな!働けうんち野郎!という話ではあるのだが、もう少し我慢して聞いて欲しい。 結局働きづらさ、働きやすさというは「スピード感」という問題に集約できるのではという気がする。 遅い時は遅くて困り、早い時は早くて困る。テンポが合わない、みたいな。密接すぎると、特にそういうことがある。 うーん。別にしょうがないっちゃしょうがないから、特に気にせず、自分のペースでやっていけばいいのかな。 自分ひとりで、やることを決めてやるのは楽だ。自分のスピードで、自分ができるところまでやるだけ。シンプル。 特に何も起きない。それが良いのかは分からない。しかしとにかく楽だ。毎朝の自分の時間、ご飯を食べながら読む本、夜帰ってから、仕事中にひらめいたことをやってみるとき、そういう時は楽しい。 やりたいことをやれている、というのも大きいが、それと同じくらいで「自分のペースで出来ている」というのもあると思う。 …みたいなことを、思ったりしてしまっている。こういうことを考え出すと、卑屈さが増す気がするのであまり考えたくない。 自分がやるべきこと、できること、に集中しよう。つっきーが僕たちに一番教えてくれていることは「俺ほどのハイスペでもこれくらいルーズに仕事をしたりしますよ」みたいな感じではないだろうか。 僕は結構、衝撃を受けている。つっきーはやはりすごい頭が良くて、そしてすごいルーズだ。沢山働ている。でも、ルーズではあると思う。 いい意味でも、悪い意味でも。その比重はシチュエーションによる。そのあたりは一度聞いてみたい。どうしてそんなにルーズにいけるんですか?と。 あれくらいの切れ者だったら、普通に部下の無能さに耐えられなくて、もっとせっせかしてしまいそうな気もする。僕だったらそうなっちゃいそうである。 でもツッキーからは、そういう様子は見受けられない。普通にしている。特になんにも感じていなさそうな気がする。 拘っていない。凄い…。仙人の無欲さに見える。ゴウツクバリの僕には。
もう少し人生について考えているだけではなくて、その考えたことを仮説まで持っていって、検証してみないといけない。 生活改善運動は行う必要がありそうだ。大正時代のように。食事と睡眠。わんちゃん運動。 運動習慣もそろそろなんとか獲得しないといけない気がする。気がするんだよねと三十回くらいここに書いている気がする。 今日はひとまず、三ノ宮まで歩いて帰ろう。最近は一応、一日七千歩をノルマに生活している。あんまり達成できていない。 昼休み終わりの散歩や、トイレから遠回りして帰るだけでは足りないみたいだ。もう少し工夫する必要がりそうだ。 三時頃に本当は休憩を差し込みたい。しかしそう思っているうちにいつも、四時五時六時になってしまう。不思議だ。 もう少し時間に対して、お金のようにシビアになった方がいい気がする。今日(土曜日)は、周さんが友だちと夜ご飯を食べる約束があったので、自動的に六時に退勤した。 六時に退勤すると、本当にいろんなことができる。毎日六時に退勤していたら、そうはならないだろうけど。 筒井康隆が100頁くらい読めて、日記が二千字三千字くらい書けた。それなのにまだ、九時前である。 もう二時間くらいは作業ができる。嬉しい。これが終わったら、雑誌レイアウトを引き続き進める。今日で終わらせたい。 GWはどこの建築を見に行こう。探訪記を雑誌に載せたいから、どこかに行こうと思うんだけれども、あまり気が進まない。 なんか別に良いかな…特に行きたいの。ないんだよな…と思ってしまっている。どうしたんだろう。建築への興味は回復してきているが、どこかに行こう、という気持ちには全くなってこない。 カーン以外に見たいものはない。やはりカーンを見に行く他ないのだろうか。インドとバングラディッシュ。GWが終わったら、行こうかな。一週間くらい。凄い不安だ。 でも日本のあまり心が躍らないものに行くよりは、ましだろう。あとがバーに行こう。新たな人間関係をつくらないと。いけない。 酒なんて一滴も飲みたくないし、話しかけられずに、本も読めずに座っている僕を想像すると、凄い行きたくない気持ちになるが、心を奮い立たせて、足を向けないといけない。 有識者である矢野さんにも助言をもらった。あとは探して、行くだけだ。頑張ろう。このまま惨めにひとりぼっちで死ぬか、恥ずかしい思いをしてから一人ぼっちで死ぬかだったら、統計的にはそう大差ないはずなのだ。 GWの目標は、バーに行く。GWが終わったら、カーンに行く。ビル設計にも必要なインプットだろう。そうしよう。決めた。 あとはなんとか、30点でいいから実行することである。バーとインド。なんとか行けるだろうか。行けたら褒めて欲しい。 臆病に縮こまってしまっている自分を打破しなければ。とにかく行く。一言もしゃべれなくてもいいし、大学の中い入れなくてもいいから、とにかく行く。
2026.4.12(日)
・みきちゃんみたいなコーナンプロの店員さん めっちゃため口
2026.4.13(月)
信じられないくらい眠い。九時半に起きると、カレーが鍋の中でカビて白くなっていた。 白いカレーをゴミ袋に詰めて、鍋を洗う。結局、金曜日の夜から三日連続で三時寝をしてしまった。 そんなつもりはなかったのだが、一部は不必要に盛り上がってしまって、こうなってしまった。 十時半ころに堂々と遅刻し出社。シコシコ働く。ファサードのパネルの割付をモデルに起こし、それを立面図に反映させる。 途中でつっきーがスタディしたのでさらに変更。しかしつっきーのスタディしたあとの方が良い。 デザインというか、システム、論理のつくり方が綺麗で、そこの考え方の流れ方が綺麗で気持ち良い。 しかしとにかく眠い。貧乏ゆすりを激しくしてみたり、アンパンマンマーチを二倍速で聞いてみたりするけれど、それでも眠い。 もう一円も要らないので、まっすぐ帰りたいのだが、しかし九時から打ち合わせがあるし、仕事をなんとか終わらせないといけない。 こうなってくると、いったい僕は、なんのために働いているんだろうか、みたいな、そういう不思議な気持になっていく。 本当に眠かった。書いている今もとにかく眠くて、もう眠いという感情しかない。瞼はいつもより深く瞳に垂れかかっている。 脳みその真ん中上あたりに濃霧が立ち込めていて、そこに草食動物が住み着いている。 草食動物が少しずつ、脳に生える意識とか理性とかを齧っていっている。 寝たいというよりは、とにかくこの脳に蔓延る違和感を取り除きたい。働きたくない。でも働かないと終わらない。 やりたいこともたくさんある…。次のDIYで何をするかの検討をしたい。ビルの図面を描きたい。温泉に入りたい。「こころ」の続きを読みたい。 でも眠い。そして仕事がある。クソだ。でもやっぱり建築は楽しい。箸にも棒にも掛からぬ建築家の末席にしかなれなくても、それでもいいんじゃないかと思える。 村田さん(山崎事務所の番頭さん)みたいな本当に凄い人にはなれないかもしれない。 僕が知っている中で、建築を現実に建てていくということにおいて村田さんほど実力がある人はいない。 村田さんのことを思い出してみると、自分なんかがやっていける気がしないし、同じ建築設計をやっているとはとても思えない。 カビていないカレーと、カビてしまったカレーくらいの違いがある。新建築データに載っていた八芳園改修PJをたまたま見つけて、そんなことを思った。 山崎事務所の皆が、表情のない顔で働き続けているのを思い出す。休みの日があったり、ご飯をよく噛んでいたりすると、時々みんなの白い顔が浮かんでくる。 山崎事務所で働いているときは、何度も何度も窓の外を見ていた。僕の席からは、一車線道路を挟んだだけで、すぐ目の前にマンションが建っていた。 そこの四階と五階を眺めていた。ときどき、お昼過ぎなどに住人がベランダに出てきたりした。住んでいるのは成人女性だった。 夜になると、もう家に帰ってきているようで、部屋の白い灯りが見えた。それ灯りと、ガラスに映る自分の顔を見ながら、仕事をしていた。 FMラジオのLiLicoだけが陽気に喋り続けていて、あとは音一つしなかった。この窓の向こうに行けたらば、柵の向こうまで行けたらば、と思っていた。 ベランダの柵が身長の遥か上迄ある、巨大な壁のように感じていた。 そういえばティーハウスでは、全然そんなこと思ってないな、と思って、五階の窓を開けて顔を窓から出し、地面を覗き込んでみた。 信号待ちをしている人、そのあいだを抜けていく車、ビル、電車と線路、曇り空が見えた。死の影はどこにもなく、地面もただ地面だった。 特になんの感情も湧かない窓であった。不思議だった。また山崎事務所の窓を思い出す。ベランダのプランターには赤ピンク色の花が時々、一輪ずつ咲いていた。 その花の色だけが世界の色であった。他は一切の色と生命を持たなかった。模型も図面も無機物の塊だった。その花がある朝にしぼんでいたりすると、本当に本当に悲しかった。 ある面においては、おじいちゃんが死んでしまった時よりも悲しかったかもしれない。もう花すら枯れてしまったことに絶望してしまって、トイレに立ったまま泣いていた。 村田さんにも、花のことや、窓の外の世界についてを考えたりしたことがあるんだろうか。
色んな窓があり、色んな地面がある。はじめての窓があると、まずそれをいっぱいに開けてみる。 窓の大きさで外の世界が見える。下の方も覗き込んでみる。地面までの距離と時間を計ってみる。 少なくとも今現在も、この世界には僕が生き続けられない部屋が存在していて、あの窓と花とが僕に問いかけて来る。 帰る場所を持たない僕にとっては、あの時の窓の外の景色だけが絶対的なものとして存在している、、…と思う。 まだ九時。多分誰も出社していない。モルタルの床。リノリウムの机。埃を被ったスピーカー。常に尖らされている鉛筆。 戦争が起きて街ごと、鈴森ビルが焼けてなくなってくれたらば良い。ウソ。やっぱりしっかり残っていて欲しい。 あの日の記憶があるから、今の、少しはマシになった僕があるのだ。きっと。 全て剝ぎ取られても生きていけるし、花は咲く。マンションの向こうの人は助けてくれないし、花は枯れる。柵は越えられない。 それこそが僕という存在なのだ。きっと。要領を得ないながらに解く証明問題のように汚くなっていく人生の是非については分からない。 がひとまず、眠いと思えるだけで今は幸せかもしれない。寝れることまで望むのは過分だ。 宮本さんや木内さんは生きているだろうか。生きていて欲しい。建築はどれくらい惨めな気持ちでやるものなんだろう。 山崎事務所の建築は素晴らしく、やはりそれはあの惨めさがあってこそなのかもしれない。 そうじゃないって、ティーハウスで言えたらいい。どうだろう。分からない。八芳園も存在していると思うと怖い。焼き尽くしておきたい。眠くなくなった。
2026.4.14(火)
ようやく習慣のリズム、六時半に起きて朝七時のコメダに行くという生活に戻る。 戻すのに、三日かかってしまった。信頼と一緒で、習慣も積み重ねを壊すのは一瞬である。 少なくともこれからは、二夜連続での夜更かしは避けるようにしよう。眠い日はできるだけ昼寝を取って、脳のコンディショニングに備える。 まだ若いが、その若さは、一晩の楽しみではなく、日々の楽しみと将来の発展のために使いたい。
月曜日と同じふたりがバイトに来ていた。どちらの女の子も、美味しそうにご飯を食べる素敵な女性である。 そう思うと、人間なんて、美味しそうにご飯を食べているだけで、あらゆる条件がクリアされている気がする。 僕の一日も、何も良い事がなくたって、美味しくご飯が食べられたらそれでまあ十分だし、美味しそうにご飯を食べる人を見て、不快になることなんて一つもない。 まあでも、ご飯を美味しそうに食べていないなと僕が思った女性たちも、親しい間柄の人の前では、美味しそうにご飯を食べているのかもしれない。 もし僕のせいでご飯が美味しそうに食べられていないのならば、それはとても申し訳ない事である。美味しくご飯を食べて欲しい。 一人でも多くの人間が、美味しくご飯を食べることを願っている。
なんだか校長先生の朝の説法みたいになってしまった。話を戻そう。 昨日、周さんと僕が肩こりの話をしているとき(どうしてそんな話になったんだろう?)、そのうちの一人の子が「私もとても肩が重くなります。肩がまるで、厚さ10センチのこんにゃくみたいに」と言っていた。 僕はその表現に心奪われてしまった。少しのあいだ電撃にやられ、そして慌てて10センチのこんにゃく肩について考えてみる。僕は全然肩が凝らないタイプなので、10センチのこんにゃくは果たして肩が重い状態を表しているのか、それとも柔らかい状態を表しているのか、判断がつかない。 いったいどっちなんだろう。でも、10センチのこんにゃくみたいと肩の硬さ加減を表現する女性は素敵だ。 ご飯を美味しそうに食べるばかりではなく、さらにご飯をお代わりしちゃうくらいの素敵さ加減である。 それを聞いたあと、少しだけ開けた窓の隙間から吹き込む風を受けながら、こんにゃくと、こんにゃくの女の子について考えながら、くるくると働いた。 ちゃんと働いていたとは思うが、あまり自信がない。こんにゃく肩の子は、淡い褐色の柄が散りばめられたワンピースを着ていて、大きな輪っかの耳飾りを両耳につけていた。 もちろんずっとその服を着ていたんだけれども、あたかも今新しく着替えたかのように、新鮮な心持でワンピースは、僕の眼の中に飛び込んできた。
その子は、七時くらいに帰っていった。その時間になるとビルは施錠されてしまうので、周さんに鍵を借りて夕飯調達の必要がある僕も一緒に降りる。 エレベーターに乗って、二三言、言葉を交わす。その子の澄んだ視線に目を合わせていると、自分の水晶体や硝子体が、濁って淀んだ側溝に溜まる水のように感じられる。 それは悲しい事であった。彼女と、彼女を包むワンピースは横断歩道を渡って、夜の暗さの中に消えていった。 商店街のアーケードから出ると、小雨がちらほらと落ちてきていた。空から垂れてくる雨水はぬるく湿り気を含んでいて、あまり綺麗そうではなかった。 僕も違う方向の信号を渡って、コンビニへ向かう。湿ったアスファルトに靴底が触れる度に、隠し事があるみたいな、くぐもった足音が鳴っていた。
2026.4.15(水)
良く曇った朝である。仕事でもしておけばいいみたいな仕事日和の天気である。 新聞を読んでいるおじいさんが、大きなくしゃみをして、そして中くらいの舌打ちをしている。 己のくしゃみに腹を立てているのだろうか。たしかにXLのくしゃみであった。ちょっと大きい。 ・ハードディスクを開いて、自分のかつての設計案を見て興奮する ・ASKAについての原稿を書いているうちにチャゲアス愛が溢れ興奮する ・昂奮ばかりしている 逆に興奮していないときはほとんど寝ているに等しい なんだこの人間は…?
2026.4.16(木)
あああうんちうんち!!! ・貰いものの食料で溢れている ・串カツを食べ過ぎる ・リエさん元気そう 良かった ・GW、遊びにおいでと言われる。嬉しい。 ・丁子くんのビル計画案が送られてくる アツイ ・阪神が負けている ルーカスキツイ 中継ぎも不安 甲子園行きたい今年は ・「こころ」を読み終える ・かつての設計案を載せようとする ・死ぬほど働き疲れる
2026.4.17(金)
昨日「こころ」を読み終えたので、一息、筒井康隆の「郵性省」を読む。 バキ童チャンネルで紹介されていた、「美女の大便はデカい」という書き出しの短編である。 これは本当に面白かった。オナニーの絶頂の瞬間に自我が崩壊し、その瞬間に湧き出て来る超エネルギーによってテレポートできるとしたら…? その世界で起こる様々な事件を小気味よいリズムで書いている。凄い。クレヨンしんちゃんをはじめて読んだ時の、インテリと下ネタの核融合みたいな爆発力を感じた。 実は僕、クレヨンしんちゃんの漫画を、一巻しか読んだことがない。全巻揃えていた友だちのお父さんが、ダブっているからとくれた45巻の一冊しか持っておらず、それしか読んだことがないのだ。 その一巻をくり返し読んでいた。一巻の中にも百個以上のボケがあり、僕のボケの3割くらいの出典は、この一冊のしんちゃんである。 バタ足で後ろに進むとか、シリアナ東京とか、「そして夜は子作りですかな」とか、「で、相手の車は大丈夫なんですか!?」とか…。 思い出すとユーモア広辞苑であった。少なくとも僕はしんちゃんから沢山のことを学んだ。 人間としての振る舞いで参照するのはASKAとしんちゃんだ。他の影響は基本的にはない。最近は少し、北岡くんの喋り方に引き寄せられている。 こうやって身近な人を混ぜ合わせた人間になっていくんだろう。
こうやって書いていると、やはりクレヨンしんちゃん全巻を買い揃えなければならない気がしてくる。 もう一度しっかり、クレヨンしんちゃんを髄に刻み込んでおきたい。漱石全集みたいな感じで、クレしんも全集として並べておきたい。 僕が秘かに対抗心を燃やしている坂野徹夫主宰の文芸雑誌「繭」では、最近SNSで著者の影響を受けた9冊みたいなのを紹介している。 僕はそれを見て、同世代の先鋭が何を読んでいるのかをこっそり勉強しているが、僕が9冊を正直に選ぶなら、クレヨンしんちゃん45巻は確実に入ってくる。 おそらくこんな感じになるんじゃないだろうか。
・臼井儀人「クレヨンしんちゃん」45巻
・ルイス・カーン「ルイスカーン建築論集」
・谷川俊太郎「耳をすます」(「まどみちお詩集も捨てがたい」)
・村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(「羊をめぐる冒険」「ダンスダンスダンス」も捨てがたい)
・岡本太郎「自分の中に毒を持て」
・福岡伸一「動的平衡」(ゆくゆくはこれがベルクソンとかに置き換わっていたい)
・J.K.ローリング「ハリーポッターシリーズ」
ここまではおそらく合っていると思う。でも毎年変わっていくのかもしれない。余談だが、朝のコメダでくそ大きな声で打ち合わせしている女がいる。 お前はブスだがデカい大便をしておけ。許さない。大便の大きさは分からないが、おでこは以上に広い。友だちの家に遊びに行ったら、キャッチボールができそうな庭だったとき。 その瞬間の「ひろぉ…!」と同じ気持ちになるくらいの庭の、間違えたおでこの大きさである。声もデカくて許せない。 そういえば45巻の巻末には、臼井義人がファミレスで隣り合わせたうざい客をそのまま漫画に描いた、みたいな短編が入っていた気がする。 それにしても本当に煩い。広島旅行のとき、初めて聞いたクマゼミの音圧以来の煩さだ。 芦田のオンライン授業も、そういえばめちゃくちゃ声がデカい。他の作業が出来なくなるくらい声がデカい。 あんなデカい声が鳴っている横で、よく僕は作業ができるなといつも思う。でも一生懸命伝えようとしているとき、声が大きくなるのは仕方のないことだ。 だからまあそれは良い。ひとまずは横の横の席のデコ広デカ大便女である。隣の安い仕上げのカフェに行け。僕がもしB型のゴリラだったら、さっき排泄したうんちを、その白い服に擦りつけている(柔らかくて投げつけるのは難しそう)。
ふぅ…。久しぶりにイライラした。なんだかやりたいことが沢山あって困る。 昨日の夜、見てしまった卒計とかをHPにあげたい。昨日はそこに到達する前に寝落ちしてしまった。 寿一Tシャツしかアップできなかった。あれを作品と呼んでいいのかどうかは、非常に諸説あるが…。 しかし精神的に余白があるうちに、少しユーモアの回路を舗装しておきたい。 HPももっと真面目で、もっとふざけている、より両極端に先鋭化したものを目指している。 「Works」には作る予定のものも予めページを作っておくと、良いのかもしれない。HPに現実が引っ張られてくれそうな気がする。 ビル計画も丁子くんのエネルギーによって、予想できない展開を見せ始めている。僕一人ではモチベーションと体力に限界があるが、丁子くんとの往復書簡のような形式になることで、集中と脱力が良いバランスで取れていて、良い感じだ。 丁子くんにボールを渡しているあいだは、ビルに関係ないチャゲアスの原稿だったり、HP作成だったり、関係のないことにエネルギーをうまく発散させられている。 しかしこの調子で、ビル計画はまとまるのだろうか。暫定としてひとまず、まずはつくってしまえばいいのかな。 どうせ現実に建てるまでには、長い時間があるのだ。
2026.4.18(土)
唐突な虚無。そして眠い。赤ちゃんは可愛い。事務所の所員さんとのやり取りに登場する、その人の赤ちゃんスタンプを見ると本当に癒される。 どうしたらいいか分からなくなってしまうくらい可愛い。何にでもなれる無限の可能性を感じる。それらはどちらも、今の僕からは損なわれてしまったものだ。 棚上げしている家族の問題が浮上してくる。赤ちゃんの表情は後退していく。陰鬱な気持ちになる。 一気に疲労感に身体が包まれる。自分には生きる寄り辺がもう残されていないことを思い出す。
余生である。余生の中の週末を過ごす。休日なので人が多い。土曜日の朝から喋る友だちがいるって凄い。 昨日は終電が一時間遅れて、寒いホームでずっと電車を待ちながら震えていた。春の夜はまだ寒かった。 最初は25分遅れと表示されていたのが、徐々に徐々に遅くなっていっていった。最後は50分遅れと表示されていて、一時間遅れくらいで電車がやっとこやってきた。 このままもしかしたら、ずっと電車が来ないかもしれないな…と思いながらホームのベンチに汚い姿勢で座っていた。 筒井康隆の短編集を読んでいた。日常のもしかしたら…?をここまで書き切って、それで最後は逆に現実らしくなってくるというところがすごい。 メソメソしないでしっかりユーモアとサービス精神があり、とても大人だ。こういうのが書けるようになってみたい。 新たな作家を文章を読むたびにそう思っているが…。筒井康隆が面白く無かったら、昨日は最低な終わり方の最低な一日になっていたかもしれない。助けられた。
家に帰ってからは雑誌のレイアウトを考える。今週中に僕の担当のところは一旦考え切りたい。 それなりの量の文字を載せたいが、pinterestで調べていると写真ばかりのものが沢山出てくる。 ひとまず表紙と表紙の裏だけ考えた。そのあとは思いつけなかった。四時前に寝た。
最近は3Dモデルをまわすことが多いので、ずっと少し酔っている。これが長時間労働に差し込んでくると、かなりつらい。 三半規管が信じられないほど弱い。何か対策はあるんだろうか。もうモデルをこれ以上いじりたくない。 僕は普段紙でスタディして、だいたい決まってからモデルを立ち上げるというやり方なので、3Dモデルで作りながら検討する現在の方法に慣れていない。 とにかく今、眠い。そしてまた今日も仕事が待っている。積極的に休みつつ頑張ろう。毎日、何時から何時まで、何をやればいいのか分からずに出勤するのは難しい。 それゆえの気楽さもあるのは間違いないが。周さんはとても良く働いている。中間管理職だ。バイトを管理し、やり取りの橋渡しを務め、パースの仕上げをやり、他のPJもひとりでやって…。
GWは何をしよう。高雄さんに旅行に誘われたので行こうと思ったが、あいにくみっちゃん教室の代打の予定が入っていた。 泣く泣くお断りすることになった。まあ社会人の友だちと遊ぶ余裕は僕にはそもそもなかったかもしれない。 芦田達はどこへ行くのだろう。まあ別にどこでもいい。一日家で、雑誌とビルの設計を進めるだけになるのだろう。 こうやって友だちがいなくなっていってしまうのかもしれない。悲しい事だが仕方がない。社会人になるとお金の使い方に差が付き始めてしまう。 こうやって順調に会えなくなっていくのだろうという気がする。こうやって数少ない予定を断っているうちに、ついには誰からも誘われなくなってしまうのかもしれない。
とても悲しい気もする。別に何も感じていないという気もする。分からない。期待感もないので、絶望もあまりない。 特に人間に対する親愛みたいなものを、自分の中から見つけることができない。 実の親族や親しかった友人、優しくしてくれる大家さんたち、それぞれに薄っすらと好感はあるが、それを愛情と呼ぶには少し心もとなさ過ぎる気がする。 自分は果たしてこんなに薄情な人間だったのだろうか。今までの僕は何だったんだろうか。あまり分からない。 まあ人間が置いておいて、やりたいと思っていることを粛々とやっていこう。本当にどうしようもなくなったら、その時にはその時のやり方があるだろう。 夜の砂漠の中でひとり、そこから昔の人は神さまを見つけ出した。僕も空と地面のあいだから、何か見つけ出せるだろうか。
でもこんなクヨクヨと書いているけど、そういえば昨日、お昼ご飯を食べたあとの時間、散歩をしているとき。 老人たちと信号待ちをしていて、その時にふと風がそよいでいって、空はそこそこ晴れていて、お腹も程よく満たされていて、まあこれってきっと幸せなんだろうなあと、思った。 さ がにこれを幸せと呼ばないわけにはいかないんじゃないかと、思った。
2026.4.19(日)
一日を通してずっと曇り。基本的に家にいた。特に行きたい場所も、会いたい人もなかった。 何かしたいという気持ちも、特になく無。だった。喉が渇いたら水を飲み、そして飲んだ水が少しずつ身体の下の方へ下がっていって、最後に尿意になって、そのたびにWCに行く。 それだけみたいな一日だった。山本くんが電子レンジと炊飯器を譲ってくれて、それを受け取り、その電子レンジで、お昼ご飯を温めて食べた。 この瞬間だけは少しうれしかった。あとは、何もない。最近はLINEの返信も億劫に感じるようになってしまっている。 大変失礼な話である。これらの無気力な感情をまとめていくと、どうして生きているのか、本当によく分からなくなる。 生きる理由がなくなっちゃって、それで死んだんだよね、みたいな死に方って、存在するんだろうか。僕が学んだ範囲では、そういう死因は存在していないようである。 とにかくつなぎとめるものが何もない。世界はGWへ向かっている。らしい。街に活力がみなぎる程、僕の命は影を薄くする。 GWに予定はない。みっちゃん教室の代行×2だけだ。芦田はどこかへ行くんだろう。僕は結局この予定だけだったのだが、この予定のために、高雄さんの誘いを断ることになってしまった。 悲しい事である。しかし仕方ない。子どもたちは、偉いもので、死にたいなんて感じは誰も出さない。立派である。 ただ生きている。ただ生きているがために、全然ちゃんと勉強はしないのだが、でも人間に対しての公平さみたいなのを感じる。 だから普通に舟木って呼び捨てされるけど、僕は生徒たちといるのはそれなりに楽しい時間である。勉強させないとと思ったら、誰も全然勉強しないので、地獄の時間だが。 そういえばこの前、ついに小二の生徒にも「ねぇねぇ舟木」と声をかけられてビビった。
最近は、食欲もあまりない。胃腸の調子はもうすっかり大丈夫なのだが、それでもなんだか食欲がさっぱり湧いてこない。 見たいYouTubeとかも一つもない。要するに消費欲がひとつもない。 生産意欲も薄れてきている。しかしこれは、雑誌デザインがよく分からなさ過ぎる怒りかもしれない。本当によく分からない。 まだあと40頁分くらいの残りがあると思うと本当に嫌になる。雑誌なんて作りたくない。まあなんでも、実際に作業するのは面倒くさいことが果てしなくあるので、こんな感じである。 ネットで調べ、ひとまずオススメされていたレイアウトの教則本を買う。pinterestを漁っていても、あまり成長が実感できない。 というか横書きが嫌だ。縦書きがいい。しかしでもこれは決まったことなので、受け入れるべきではある。 文字をたくさん並べないところはたしかに横書きの方がいいと僕も思う。文字をたくさん書くところは、縦書きにしたい…。 まあそれは僕の手札が少なすぎるから起きている問題だろう。一回、レイアウトは放り投げて、ビルの設計の方に戻ろう。 この四日くらい、真剣にレイアウトを検討したのだが、全然うまくいかなかった。非常に鬱憤ふっぷんしている。 バッティングセンターでずっと空振りしているみたいな。自分の身体から、自分の納得できない成果物が発表され続けるのは非常に不快だ。 まあ別にこれもよくあることなので、深追いはしない。寝て忘れよう。今週末のあいだで片付けられると思っていたが、見通しが甘かった。
書いてみると大したことない問題だ。要するに週末は家でずっと昼寝していればいい。朝だけコメダに行こう。 しかし、誰の歓びにも接続していない人生というのは、市井の人間が耐え得るものではないのかもしれない。 久しぶりに芦田と会うと毎回必ず、なんかおもろいことあった?と聞かれ、だいたい面白いことなんてない、少なくとも芦田にとって面白いことなんてないので、今日もまた押し黙るのみである。 我々は程度の差こそあれ等しくドーパミン中毒者なので、面白くないことには何の興味も示さない。悲しい生き物である。 僕はそれを誤魔化す術を持たないので、人間とのコミュニケーションが概ねできていない。 こうやって書いているなかで思うのは、僕の今の最大の問題は、階段を登り詰めていきたいが、その先にあるのは、常に現在の僕を嫌な気持ちにさせる男たちの背中である、というところではないだろうか。 僕は頑張っていった先に、芦田やヤマケンみたいな人間になって、かつての僕のような民を苦しめる存在になるのだ。 というか僕は、一緒に仕事をしていい気分になるような人間では全くないのだ。芦田もやまけんも面白くなさそうだったし、生産性の低い僕に対しての苛立ちのようなものを常に感じていた。 僕にはその攻撃性の気配が自分自身の中にも存在しているのを予感した。だから、それらはただの攻撃ではなくて、自分自身によって発されている攻撃性と言っても過言では無かった。 自分自身から発される加害性によって僕は傷ついてしまった。これはもうどうしようもない問題なのである。 この問題の解決方法は僕が知る限りはひとつで、逆に攻撃されている方の自分から、攻撃する方の自分に攻撃するのみなのだ。 要するに、卑屈になったり、自殺に代表される自傷行為みたいな、そういった感じである。そのふたりの元から離れても、僕はまだその黒い影から一向に逃れることができていない。 本当にそれは悲しいことである。彼等の問題ではまったくもってなく、僕自身の問題である。だから問題が続いている。 僕の意識というのは、現在この袋小路に迷い込んでしまっている。そしてひとりだ。これを自力で解決できないと分かってしまったら、冗談ではなく僕はその時点で、本当に死ななければならない。 生物的に死ななくても、何かしらのかたちでの明確な「死」は必要だ。果たして僕はこの問題を、ひとりで切り抜けられるだろうか。 あまり自信がない。安易に死ぬわけにはいかないが、この問題の解決が不可能になったらあとに生き続けるのも難しい。 過去現在未来あらゆる時点における自分自身を否定することになる。まあそれを認めてしまえばよい、という議論もあるだろうが…。
とにかく現在の僕は、平穏さを取り戻しつつある生活の中で静かに、取返しがつかないかもしれない状況に向っている。 これは本当に問題だ。そしてこの問題が解決しなかったときに、命を繋ぎとめる外的理由が存在しなくなってきていることも非常に問題である。 僕はかなり真剣に、親より先に死ぬわけにはいかないと子どもの頃から思っていて、それによって希死念慮を回避できていた部分も大いにあったが、最近は、親より後に死のうなどとは全く思わなくなってしまった。 春になり、窓を開ける季節になった。柵のない、真っ逆さまに落ちられる、ちょうどいい腰窓がある。 窓を開けて部屋にいると、窓の向こうがしきりにこっちにおいでよと誘惑してくる。のを感じる。実際は普通に窓が開いているだけなのだが。 しかしこうやって、指を折って数を数えるように、人間は追い詰められていくということは知らなかった。 知っていたのかもしれないが、実際に経験してみると、なかなかのものである。人間という生き物の認識の限界の黒い壁みたいな、そういうものを感じる。 いや、もっと賢かったら、もう少し奥までいけるのかもしれない。まあいいや。豊か、といえるほどの余裕はないが、地獄へのゲートで閻魔さまに「どうじゃった?」と聞かれたとき、「なかなか興味深かったです…」と答えるくらいの感じはある。 生きなければならない理由とか、見つけないとな。驚くべきことに本当にひとつもない。一つもないからって死に急ぐ僕も変な人間だが、やはりそれならば一層、しっかりと生きなければならない理由みたいなものは、一生懸命目を凝らして探す必要がある。
2026.4.20(月)
頭がどうも痛かった。なので昨夜は日が替わる前に枕に頭を置いた。 そのお陰で今朝は、目覚ましの音よりも早く目が覚める。窓から入る光の様子からも晴れのようだ。 気持よく、頭をあげる。寝る前と同じくらい頭が痛い。なぜだろう。あまり理由が分からない体調不良である。 提出まであと五日ある。ラストスパートの時期に体調を崩すなんて、中々情けない。 というか普通に問題でもある。再発防止に努めなければならない。
考えられそうな要因を挙げてみる。 ・自分達のやるべきことに終わりが見えてきている
僕たちの担当箇所は、実は殆ど目途がついている。あとは、つっきーが文章考えたり、図面をプロポ用に線整理したり、他の人が担当しているところだ。 実は今日休んでも、そんなに問題がない気もする。しかし僕はバイトの身なので、あまりその全体像がつかめていない。
・体調管理不足
目途がついていないのに安心しているとしたら、それは普通に問題だ。これは僕の技術不足である。しかし目途はついていて、残り作業はパースブラッシュアップだけなので、この可能性は低いと思われる。
・人のペースで追い込むのが不得手
周さんの部下として基本的には働いている。周さんのリズムに合わせすぎているために、上手くピークコントロールが出来ていないのかもしれない。 もう少し日々早く帰るとか、なぜか仕事が渡されない空白の時間とかを、周さんへの気遣いを0にして遂行する必要がある。 事務所について30分くらい、なぜか何もすることが分からない時間とかある。仕事のくせに輪郭が無さ過ぎて僕は困惑する。 時給労働だとそれをより感じる。まあそれは僕の領分では無くて周さんの領分なので、あまり気にしなくても良いのかもしれない。 しかし、その時間に堂々と読書するには働き過ぎている。社員より普通に働いている。この時間の処遇は難しい。 こういう時間は、周さんの元にタスクが集積しすぎて、周さんがそのうちのどれかに取り組んでいるときに発生する時間だと思われる。 しかしだいたいそれが発生するときは、なぜ今空白時間で、いつまで空白時間なのかが全く分からない。仕事をしていないのに、時給1300円が発生する時間が訪れる。 非常に無駄な気遣いだ。考えていくと「今仕事ないですね」と言質をとって、返事が無かったら勝手に休むほかないのだろう。 まあ平日はいい。休日は普通に最初一時間くらい何をするか分からない時間があるので、それも普通に困惑する。何この時間みたいなのが沢山ある気がする。 これはおそらく、僕たちが有している時間感覚に大きな隔たりがあるように感じる。これは矢野さんに相談した方がいい案件だ。 周さんならびにティーハウスは尋常じゃなく時間に対してルーズな場面がある。僕もそんなにシビアな人間ではないが、ここのルーズさは異常である。 バイトの子が時間通りの二分前とかに事務所にくると、不自然すぎて事務所が変な感じになる。こういうのはちょっとまじで、折り合いをつけるか、適応しないと生きていけない。 しかし適応はヤバイ気がする。僕はそれ以外で不適合な面が多々ある気がするので、時間くらいは守れた方が良さそうだ。
横のおじさんがモバイルオーダーできずに店員を呼んでいる。長々と教えてもらった挙句に、ありがとうも言わずに「ね。分かりづらいでしょ?」みたいな顔で店員さんを笑顔で詰っている。 今度はトイレが埋まっていて不機嫌になり、またベルを押した。空きトイレを探しに歩く不必要に大きな足音が店中に響く。 身なりはしっかりしているし、持ち物や過ごし方は知的な人間であることをうかがわせるが、そんな中年男性でもこんな感じなのだ。 高校生の頃にちゃんといじめられるべきだったのに、いじめられなかったのだろう。 まあいじめられないことに越したことはない。意外とそれっぽい空気を出していれば、人間いじめられずに潜り抜けられるもののようだ。 どちらがいいのかは分からない。おじさんはトイレから出ると、おもむろにコップを持って立ち上がり、自分でバックヤードに入って行き水を汲む。動物過ぎる。 しかしここまでくると、好感が持てる。良い。でも、自分や周りの人間を見て、最近分かってきたことは、大人の人間って意外と本当になんでもいいし、全然ちゃんとしていないまま偉そうにしていたらしい、ということである。 僕は母親や先生たちの表面だけしか知らず、人間の大人はしっかりしないといけないのではと思っていた。 でも自分が人の親になってもおかしくないくらいの27歳になり、賢い同級生や高級住宅街の外で暮らすようになってみて、やはり普通に人間というのは全然立派な生き物ではないなというのをしみじみと感じている。 僕が19歳まで生まれ育った街の人からしたら、こんなのは生きるに値しない、自己責任で死んでしまえとは言わないがそういう侮蔑に値してしまうくらいのクオリティの人間の大人が、街に溢れている。 当然頑張っていて、当然他の人より優秀であって、当然社会的に成功していなくても、生きていて良いらしい。ということを身をもって学んでいる。 大袈裟かもしれないが、本当にそういうことを僕は知らなかった。恐ろしい世間知らずである。しかし気づけて良かった。 話が脱線したが、本当はここに書きたかったのは、おじさんとの対比で、周さんはまじで毎回ありがとうとしっかり言うというところだ。 これは普通に凄い。あとは絶対に、どんな小さな検討でも、これは舟木にやってもらって…みたいな、ちゃんとそういう報告の仕方をする。 これも結構凄い事だと思う。こういうのって、なぁなぁでなんか、自分の手柄っぽくしちゃうのが人間の性だと思うのだが、周さんはちゃんとこれはアイツがやりました、みたいなことを言っている。 首長としての器の大きさである。周さんからは学ぶことは多い。あとはたぶん聞き上手。 なんだろう。仕事振るの遅いなとか、時間ルーズだなとか、そういう制度的なことは、あまりちゃんとはしていないが、そういう気持ち的なところは本当にちゃんとしている。 逆に僕は、制度的なところはかなりちゃんとしているが、感情的なところは本当にちゃんとしていない。共感とか世間話とか、褒めるとか、そういうことに関する能力が欠落している。 ムコジョの女の子たちも、周さんが首長だからたくさん来ているのかもしれない。 例えば僕は、もっと効率的にバイトたちを運用できるとは思うが、しかし感情的フォローが全然なっていない。 バイトの子たちが離散する説がある。下手なパースにイイジャンとは言えない。言えよタコ野郎!って話なんだが。
という感じである。体調不良に乗じて、沢山考えることができて満足だ。肉体が滅してくると、精神だけが浮かび上がってくる。 だいたいは不健康な精神だが…。僕はこれから生きのびていくなら、話を聞く、褒める、共感する、といった諸要素について身につける必要があるのかもしれない。 共感しないから一人ぼっちになるのだ。でもまあ、ちゃんとしていなくても生きてはいけるし、なんなら人の親になってもいいようだ。 僕がこう思うということは、母はとても偉大であったということだ。僕は程度の知れたの人間なので、偉大ではない方法の生存可能性を探っていかねばならない。 発見である。
2026.4.21(火)
今日はダメだ。死にたくなってしまう。 そして疲れすぎている。何にそんなに疲れているかは分からないが、朝起きた時、寝た時から身体の状態を少しも改善できていなくて愕然とする。 そして上手く人と喋れない。困った。相談できる人ももういない。あらゆる人間関係の芽を摘み取ってしまった。 多くの人に助けてもらっていて、それによって生きのびさせてもらっているのに、その命に対して大切にしようという気持ちが湧いてこない。 LINEもあまり返せない。その力が残っていない。これはもういよいよダメなのかもしれない。そして、こんなに疲れているのに、15万円しか振り込まれなかった。 時給1300円だとしたら、交通費抜きで17万円くらいにはなるはずなるはずなのに、なんでだろう。実は最低賃金だったんだろうか。楽しみにしてしまったので、落ち込んでしまっている。 感情が生じてこない。生きている心地があまりしない。これはダメそうだ。書いても改善しそうな気配がない。ひとまずは横になろう。 ここで終わりなのだろうか。進んでいける気がしない。感情が生じてこないのはとても不気味だ。
寝転んでいたら、先週注文した、クレヨンしんちゃん全巻が届いた。それを棚に並べているうちに阪神は二点を取り、そして四点取られた。 才木は数字は凄いが、不思議と物足りない印象がある。今日も凄いボールを投げているが、なぜか圧倒していない感じだ。不思議なピッチャーである。 漫画を並べるために本棚整理をすると、普通の気分になった。やはり整理整頓というのは大事なんだなとしみじみする。 しかし身体の疲れは抜けない。背中の違和感はなんなのだろう。日曜日くらいからずっと背中が張っている。肩は凝らない。 湯船に浸かると少し良くなりそうだが、いつ行こう。金曜日と土曜日がチャンスそうなので、そこで潜り抜けていくしかない。
ひとまず一点ずつ、少しずつ試合終了の時に勝てるように、やれることをやっていくだけのようだ。阪神も僕も。 でも、阪神には森下や佐藤みたいな、信じられないくらい頼りになる選手がいるが、僕には一枚の切り札もない。 切り札を増やしていく事から始まる。寝る。元気でいる。歩く。なるべく喋る。本を読む。嫌なことをしない。すぐ手をつけて、すぐ終わらせいく。 今日できることはなんだろう。ひとまず、給料ってどう計算したかを聞こう。お米の調達は出来た。明日持っていくお米を炊こう。 公共料金は振り込んだ。試合が終わったら、すぐ寝るのが良さそうだ。今日、なにかしらのアウトプットは期待できそうにない。 阪神が同点に追いついた。強い。モレッタは21試合目で11試合目の登板だ。多い。しかし14勝しているから、そうなってしまうのはしょうがない。 先発投手が完投していない試合は全て投げているということになる。中継ぎも過酷な仕事だ。みんな分かっているけど、どうすることもできない。 こんな華やかな舞台でもそういう役回りがあるのだから、我々が粉々になるまで働かざるを得ないのは仕方がないことかもしれない。
そんなことを考えていたら、いつの間にかピンチになっている。モレッタ。ちょっとお疲れなのかもしれない。ノーアウト一二塁。 どうやって切り抜けるのだろう。今日は…勝ちたい試合だ。勝てるだろうか。今年がでも恐らく、阪神が連覇する最大のチャンスだろう。 そしておそらく最後のチャンスかもしれない。佐藤はこの調子だと、今シーズンが終わればメジャーへ行くだろう。 近本、大山、岩崎あたりの主力選手もそろそろ峠を越えてきそうな年齢に差し掛かっている。立石はもう三度目のケガをした。 僕ももう二度ほど体調を崩している。ライト前ヒット。ノーアウト満塁。今日はさすがに勝てないだろうか。バッターは横浜の六番バッター、山本。 さっきの打席で同店のツーベースを打っていた。
給与明細について問い合わせていたら、押し出しとセンター前ヒットで三点差をつけられた。六対九。 ピッチャーは押し出しのあとに木下にスイッチ。木下は九番バッターにもファーボール。ワンアウト満塁。 木下のピッチングを見ていると、もうこれは厳しいだろう。ストレートが半分以上、ボールになっている。 その状況だと打者はストレートに張れるので、あまり圧倒できていない。まあでも今日は突然の登板で可哀想なところもある。 結局六対一〇で横浜の攻撃が終わる。こうなるとは思わなかった。才木がすべて悪い。まあしょうがない。まだ四月。無理をせずに行こう。 僕も秋に向けて、コツコツ頑張っていこう。給料問題も、源泉徴収と休憩時間の二重引きということでこの額なっていたと判明した。 理解。これで16万円くらい。他のバイトを足したら、20万円くらいになるだろう。多分。税金を全然払っていないけど。 やはりもう少し支出を減らす必要がありそうだ。余裕がある暮らしかなと思ったが、そういう感じでもないみたいだ。 本を買うペースは少し抑えよう。積読まみれになっている。クレヨンしんちゃんを、一日一冊ずつ読んでいこうと思う。 試合が終わったらシャワーを浴びて、一冊読んで、寝る。かな。阪神はここからどうなるだろう。嶋村が初ヒットを打った。 やはりいいバッティングである。代打の切り札として、今シーズンやっていけるのではないだろうか。原口や糸原の代わりとなり得る。 どこかでマスクを被ってスタメンで出してもよさそうだ。連打で七対一〇。引き続きワンアウト満塁。そしてバッター佐藤。ここで長打が出れば…だが、こんな二転三転の試合なのでよく分からない。 どう試合が転べばいいんだろう。普通に打った。九対一〇。試合は、佐藤はどうなるんだろう。ワンアウト二三塁。バッター大山。 内野は前進守備。大山あたりに複数打点が出ると、嬉しい。こういう試合は、打た無さそうな人が打ったチームが勝つ。佐藤と森下は当然打つので、あまり関係がない。 大山はファーボール。ワンアウト満塁。そして前川。前川!!!!大貯金チャンスである。頑張って欲しい。 貯金貯金!!今年はいけるぞ。前川。あれ。前川。ノーステップ打法なんて、そんな打ち方だったっけ? 真ん中のストレートを振り遅れてファール。これはダメかもしれない。追い込まれた。どうする。外角高めのストレートをファール。 打た無さそうな目をしている。ストレートを同じくファール。追い込まれたので仕方がない。変化球。 拾ってゴツン。バットが折れた音。ショート正面。6-4-3。前川ゲッツー。ダメだ。今年もレギュラー取れない。 福島の方が取れそうな気がしてくる。目(め)的に。打つべきじゃない人が打たないと、勝てない。日なので今日はゲームセットだ。と思う。 グッバイ前川。でも貯金は前川でするので、前川頑張れ。嶋村マスクを被る。良い事だ。負けているからできる事である。 しかし前川の守備と走塁を考えると、嶋村をレフトで使った方がいいじゃんみたいな、そういう説も出てくる。頑張って欲しい。 ピッチャーは湯浅。いきなりファーボール。もうそういう日みたいだ。湯浅もストライクが入らない。六球連続ボール。 おちんぽ過ぎる。しかしこんな野球上手な男たちでさえこうなってしまうのだから、実力至上の世界は大変だ。 僕も普通に実力をつけていくしかない。遠慮している場合ではない。食われてしまう。というか喰われてしまっていた。去年はずっと。 あ!湯浅も打たれた。今日投げる人は可哀想だ。みんな防御率があがって帰っていく。九対十一。これ以上離されたら、さすがに厳しいだろう。 岩貞が替わって登板。少し太った?偽装スクイズによる盗塁。そういうのもあるのか!上手い。 レフト前ヒット。九対十二。まあ岩貞がどうなっても、そんなに何も思う事はない。 弱いショートゴロ。必死のプレーも大山取れず。九対十三。嶋村がおちょくられている。少年野球のように一三塁を、二三塁にされる。 センター前ヒット。九対十五。頑張れ。ダルビッシュでも、マー君でも衰えれば打たれる世界。二十代のダルビッシュとか、本当に違う星の生物みたいだった。 しかし、こうやって移ろいゆく世界を、世界なのだから、なるべく毎日同じような人間であるのは、とても大事なことのように思える。 辛ければ辛い時ほど。同じように、同じように。ずっと敵のチャンステーマが流れていても、いつも通り。九対十六。 二イニング連続で打者一巡?打たれ過ぎている。大味な日はそういうものだろうか。しかし藤川は表情が本当に変わらない。 なんなら劣勢になればなるほどニヤニヤしている。怖い監督だ。相川はすぐしかめっ面をしていた。これは怖くはない。いい人である。 嶋村のキャッチングは、今日は特に影響はないが、ミットが動き過ぎている気もする。ようやく攻撃終了。九対十六で九回の表、最後の攻撃へ。 こうなると明日は、大差で負けるか大差で勝つか、先発が完投するかのいずれかが良い。負けパターンも出し切ってしまった。 負けた。九対十六。シャワーを浴びて、米を炊いて寝よう。明日は明日。負け試合から学ぶことは多い。 淡々と一日一日を、やるべきことを、やっていこう。自ずと良くなると信じて。死にたいというのは普通に易き道を選ぼうとしているので良くない。 汚く生きる。
2026.4.22(水)
冷静に考えると日記を書いている場合ではなくて、一刻も早く原稿の一文字目を書かないといけない。一行だけ。たくさんいいうんちが出た。満足。
ということで原稿を今からここに書いていく。まずはチャゲアスについての原稿を書こう。 最初はチャゲアスの楽曲紹介を一曲選んでしようと思っていたが、考えているうちにそれだけでは我慢できなくなってきてしまった。 月刊誌だったら、一年で十二曲を紹介できるが、これは季刊誌。一ヶ月で四曲は少し少ない。 できれば、ここでアルバム一枚くらいの量を紹介したいところだ。 ん。アルバム一枚?確かにアルバム一枚を丸ごと紹介する、という作戦もある。 それは良いかもしれない。僕もアルバム単位で楽曲を聞くという久しぶりの良い経験になる。思い出の一枚は何だろう。 高校生の頃は、最寄り駅のBOOK OFFに週一で寄って、中古CDコーナーを物色していた。時々、予算内のチャゲアスのCDを見つけると、こっそり買って帰って、夕飯を食べた後、こっそりCDプレーヤーで、まだ聴いたことがないチャゲアスの新譜に耳を澄ませていた。 こっそり聴いているという表現には語弊がある。普通にCDプレーヤーはリビングに置いてあったので、リビングで聴いていた。 僕がチャゲアスが好き、ということに納得できる理由がなかったり、僕の歌声が大きすぎたり、歌いながら勉強をしていて成績が悪かったりと、僕のチャゲアスの音楽に触れる時間というのは、家族からもあまり歓迎されていなかった。 学校でも「どっちが覚醒剤をやってる方?」と無邪気に聞かれ、あまりチャゲアスファンをしていて、対外的に良い思いをした記憶がない。 そう思うと、よく10年も懲りずに聴き続けている。それだけチャゲアスの楽曲が素晴らしいのだろう。楽曲の素晴らしさだけではなく、ふたりの人間としての「力(りき)」みたいなものに引き寄せられている。 まあ楽曲と歌い手というのは不可分なものだから、1アーティストを応援するっていうのは、基本的には楽曲+その人間なんだろう。比率は人それぞれである。
脱線しているうちに、接続のしどころを見失ってしまった。 僕がまず一枚のアルバムについて述べるとしたら間違いなくこれ。「Too many people」(2017)である。 2017年の2月の発売なので、当時、僕は高校二年生。発売日の前日の夜、塾帰りにおそるおそるTSUTAYAへ行く。 取り寄せているけれど、一応店内の棚を一通り見てみる。普通に流通していたら嬉しいと思って。 しかしもちろん、TSUTAYAにはASKAのCDなんて一枚も並んでいない。不起訴報道などでワイドショーを盛り上げたのが年末くらいだったし、執行猶予期間で表立った音楽活動も行えない時期だったので、当時ASKAは音楽家としてではなく、ワイドショーの餌、失墜芸能人であった。 それんしても、明日発売なのに一枚も店頭に並んでいないのはおかしい。もしかしたら、CDは売っていないのかもしれない。少し落ち込みながら、店員さんに一応聞いてみる。
「取り寄せをお願いしていて…」
勇気を出して店員さんに訪ねてみる。少々お待ちください、といって店員さんは背中の棚を探す。 探しているということは、探したら存在している、要するに存在しているという事だろうか…? しばらくすると店員さんは、一枚のCDを手に取って、僕のもとへ戻ってくる。
「こちらでお間違いないですか?」
店員さんの掌の中には、確かにASKAのCDがあった。本当に発売されていたんだ…。喉が渇いてしまって声が出ないので、コクリとうなずく。 握りしめたお小遣い(高校生にとって3000円はそれなりの大金である)で会計を済まして、CDを受け取る。喉はカラカラなのに、手には手汗をびっしょりとかいていた。
TSUTAYAから家まで、受け取ったCDの重さを右手に感じながら、桜田通りを登っていく。信号の青や赤が、やけに鮮やかに見えていた。もしかしたら雨が降っていたのかもしれない。 早歩きで家に到着。母親がご飯を温め直してくれているあいだに、慌てて袋を開けてCDをセット、歌詞カードを持って食卓につく。 一曲目は「FUKUOKA」。これはその前のクリスマスにクリスマス・プレゼントとしてYouTubeにアップされていたので、何度も聴いていた。 続いて「Be free」「リハーサル」と続いていく。この日は確か三周くらい聴いたけれど、一番よく覚えているのは、四曲目の「東京」だ。 細かく刻まれるビートと雄大なメロディライン、Bメロでの転調、Bメロからサビへの展開の仕方。ぶ厚いハーモニー。 サビでの高音の使い方(上げ方)。ASKAがつくるTHE POPS。「チャゲアスらしい」サウンド。 歌詞はこれまでと異なり、ひねりは少なく直喩やストレートな言い回しが目立つ。
「それでも人は繋がっている」
ASKAはくり返しそう歌っていた。そうなのか………!と僕は感動した。 ここ数年のASKAの報道のされ方や世間好から好奇の目に晒され方、ミヤネ屋で勝手に音源を流されたり、タクシーに乗ったらドラレコをTVに売られたり、公然と非人道的な扱いが繰り返されていた。 そんな扱いを受け続けていたASKAが、こんなにもあたたかく人間愛を歌っていることに、僕はとても感動した。泣いた。
最新のASKAの歌声はまた艶を増していた。2000年代以降の喉の不調から復活しつつある時期の活動休止期間であったが、その間にも声は衰えていなかった。 低音も良く、中高音域の響きも失われていない。 高音域の鳴りの弱さなども喉の不調以降は目立っていたが、この楽曲ではパチンとしっかり当たっていた。無理やりしゃくって、持ち上げて出す高音ではなく、しっかりとピッチ良く当てるべき音へ一撃で届かせていた。
可愛らしい歌詞も印象的である。
「テントウムシみたいなかたちの車」
「色とりどりの屋根のおうちたち」
こういったASKAの言い回しに僕は影響を受け、こういう言葉遣いを好んでするようになっていったと思われる。記憶の改ざんかもしれない。
特に学校でこの興奮を共有する友もなく、家族も特に何も言うべきことは無かったので、それから一ヶ月ほど、ひとりでこっそり、電車の中や自習室で、このアルバムを繰り返し繰り返し、聴いていた。 素敵な、大切な思い出である。そのうち僕も大学生になって、ASKAも執行猶予が解けたら、ライブで生の歌を聴けるのかな…という期待が膨らんでいった。
好きなものごとについて述べるのは難しい。好きを共有できた体験の不足により、あまりそういうのが得意でないみたいだ。 文章であってもしどろもどろである。練習し改善していく必要があると感じた。 本当は、「ふたりぐみ」とはみたいなことについて書こうと思っていたが、話が逸れてしまったので、それについては明日書いてみようと思う。 僕の少ない人生経験から鑑みると「ふたりぐみ」というのはとても難しいものだと感じる。もうチャゲアスの音楽の話では全くないけれども、まあでもこれは書いておいた方が良いかなと思っている。 雑誌には載らないかもしれない。ざっくりまとめると、チャゲが偉い!!!という結論の話になると思う。
2026.4.23(木)
日記書くのが面倒くさくなってきた。 ひとまず30分くらい書く。今は設計がしたい。 クレヨンしんちゃんを少しずつ読み進めている。面白い。久しぶりに声を出して笑った。 昔みたいにしっかり読み込んで、ギャグひとつひとつを血肉にしていきたい。 野原一家は、だらしないがとても良い人間で、一方で回りにいる「ちゃんとした」人達はそれに振り回されていく。 しんちゃんを圧倒するのは、オカマの忍ちゃんくらいだ。 これから分かることは、オカマは世界で一番強いということだ。美輪明宏とかミッツ・マングローブとかを見れば分かる。 しんちゃんはその次の序列に位置する。心と身体の性別一致の固体では、そこが最高位だ。それをやはり目指していきたい。 抜きべき力を抜いておかないと、良い人であるのは難しいのかもしれない。そういう教訓的な漫画のようにも思える。どんどん読んでいこう。
最近は週に一回ほどのペースで、大家さんからの食糧支給がある。そのお陰で食事は単調さを脱し、そして便通も良くなってきている。 とても有難い…。今度、伝えないといけない。うんちも最近、良く出ていますって。 昨日はウナギと靴下と漬物とチリメンジャコをくれた。冷蔵庫にはまだ、これも大家さんがくれた、りんご、鮭、ソーセージが残っている。 僕も貰ったものを世界に還元していかないと。世界に対して差し出したものは、その人自身から帰っては来なくても、かたち姿を変えて、誰かからは帰ってくるのだなと、そう思った。 最近の僕は何かを世界に差し出しているだろうか。モノとして差し出せるものはないので、明るく挨拶をして、ジョークを飛ばし、世間話を振り、共感する。 こういうタダで出来ることをやっていかないといけないなと思う。大家さんにも何かしらのかたちで恩返をしたい。 どうやってやればいいんだろう。大家さんへのプレゼント。物欲なんてもう何もないわ、と言っていた。オシャレなサンダルが無かったことは残念そうだった。
大家さんの家を辞して部屋へあがると、カドカワのチャゲアス特集号(1999)が届いていた。 雑誌のための基礎文献として300円で購入。それを読みながら、寝た。ASKAのような人間になりたい、と思う。 そういう道筋を僕は辿れているだろうか。少しそれには一生懸命さが足りないかもしれない。ASKAと比べながら仕事をしないといけないなと思った。 続きは気が向いたら書く。いよいよ明日、プロポの提出日だ。これが通れば、僕は残ってこのPJを頑張ろうと思うし、負けたらグッバイだと思っている。 明日は出したら、銭湯に行って、指先がブヨブヨになる長湯をしようと思う。背中がやはり変だ。 日曜日までに設計案を完成させて、丁子くんのところへ持っていきたい。雑誌の対談の内容のために、設計案と、ビル理念、共同体の在り方についても考えて、そのアイデアを持っていきたい。
2026.4.24(金)
無事プロポの提案書を提出。夜には基本作業が終わり、帰ってくる修正も文言など、僕が担当しているところではなかったので、事務所で目覚めてから、一秒も結局仕事をしていなかった。 勤務簿から本日出勤分の労働時間を横線で消す。一緒に組んでいる事業者から無事に印刷できたという報告を聞いて、我々は早上がりする。 筋肉質で圧が強いお姉ちゃんたちがひしめくうどん屋でうどんを食べて、花隈の銭湯で爆睡をかます。 うどんを周さんにおごってもらう。道すがらの古本屋に潜ると、翻訳物の官能小説を発見したので二冊購入。 しかし少し読んだ感じだと、性描写が少し淡泊に感じる。まあいい。 ケツの穴をまず嗅いでから性交渉に及ぶという謎の儀式は面白かった。 銭湯に入っても疲れは取れず、家に帰って二時間ほど眠る。
2026.4.25(土)
街はいよいと春から初夏の陽気で、おばちゃんたちは日陰で信号を待つようになっていた。 劇場へお笑いを見に行く。with飼原くん。 難波の駅を降りると可愛い女の子がたくさんいた。漫才劇場に入ると客のほとんどは若い女の子であった。 特に面白かったのは、フースーヤ、ザ・パンチ、ダブルヒガシ、銀シャリの四組。 立ち見はつらかった。次はメモ帳を持っていきたい。
飼原くんと漫才をしたい。漫才をして、劇場に通う可愛い女の子たちをファンにして、そしてそのファンに手を付けるという産業体制を構築したい。 そのためにネタを書きたい。(!?!?!?!?!?!?)不純すぎるが、純粋にそう思った。それくらい漫才劇場は20代女性で占めていた。
漫才を見た後は、鳥岡さんの所で開かれているたこ焼きパーティーへ向かう。 子ども食堂への最後の角を曲がると、道路では子どもたちがサッカーをしていた。元気である。 たこ焼きを食べていると、仕事終わりの芦田と芦田の部下たちも訪れる。デッカい。ラグビーチームみたいだった。 空気もピリピリしていたので、仕事モード中に中断して訪れたといった感じのようである。 たこ焼きを焼いたり食べたり、サッカーに付き合ったりする。 芦田が生徒に「大人になって一年彼女や彼氏がいないやつはヤバイヤツなんだ」みたいなことを言っている。 何…⁉それはまさしく僕のことだ。もうちょうど一年くらいになる。いやまあ、彼女がいたって別にヤバイ人間だとは思うが…。 子どもたちに悟られぬ様にコッソリ落ち込む。まあでもそうなんだろうなあ。… 芦田たちは仕事だと言って、八時過ぎに先に帰っていった。八時半ころにお開きになり、僕たちも帰る。 何故か子どもたちは僕の家の方までついてくるので、巻く。あいつらはどこまで冗談で、どこまで本気なんだ…? 本当に僕の家に上がるつもりだったのだろうか。家にまっすぐ帰りたくない事情でもあったのだろうか。 まあ高校生のときに、家にまっすぐ帰りたい日なんて、一日もなかったかもしれない。
2026.4.26(日)
山崎事務所に再入社する夢を見る。詳細は忘れたが、言葉の節々に侮蔑のニュアンスが散りばめられていて、「どうして僕はこんなところにまた帰ってきてしまったんだ…」と頭を抱えていた。 あくまで夢である。しかしとても怖かった。
西成へ行く。北岡くんと十時に集合しようとして、十一時に集まる。 大通りから一本奥へ入っていって二分ほどして、昼から酔っぱらっている二人組の三十代くらいの男性に呼び止められ、ガンつけられる。 「見せもんじゃねえんだぞ!」こっちは必死で生きてんだよ、それをさ、お前らはさ、珍しいと思って撮りに来るのかもしれないけどさ、凄い迷惑だよ? といった感じで眼前に迫ってくる。これはきっと北岡くんと僕の威圧感不足によって、勝てると思ってケンカを吹っ掛けられている。 これは決闘であるというゴングが胸を鳴らす。生き物と生き物の勝負だと思い、腹に力を込めて相手のふたつの眼玉を、ひとつずつ凝視し続ける。 そのうち言いたい事を言い切ったのか、歯抜けの酔っぱらいたちは去っていく。向こうの方が先に目を逸らしたので、僕の勝ちである(?)。 まあでも確かに、ここでフラっと来て、写真を撮るというのはあまりよろしくならそうだ。 しかし、日雇い昼呑みおじさんたちが必死に生きていて、僕たちが必死に生きていないという言い方は承服しかねる。 お前らは昼から飲んでいるが、僕は朝から勉強している。そういう問題ではない? それに僕たちがどうして苦労してないと決めつけられなければならないのだろうか。納得がいかない。まあでも、撮るには攻撃的な行為である。 それは良くないかもしれない。しかしでは、六甲で写真を撮るのは良くて、西成で写真を撮るのはどう違うんだろう。 加害性っていうのをどう捉えるべきか、僕はまだ分からない。 あらゆる加害性みたいなのを目ざとく排除していた結果、それによって形成されつつあるのが今の世界である。 どうだろう。以前より素敵な感じになっているだろうか…?案外そんなこともない気がする。 加害性に富んだ人間と接するのはあまり愉快ではない。しかしそれは、僕の攻撃に対する耐性が足りないという風にも考えられる。 どうしよう。雑誌の特集にして、考えてみるか…?
以下。雑誌の特集スプレッドシートに記入した内容。
やはり、加害性について一度しっかり考え直したい。やまけんや、芦田や、梶山さんや、もちろん自分も…。 告白の加害性とかも女性陣に書いてもらっていいかもしれない。写真を撮る事の加害性とか。 建築も勿論攻撃的な行為である。笑いも…。僕は最近、そういうことを考える度に、本当にどうしたらいいか分からなくなってしまう。 突き詰めて考え出てくるのは、今この窓から飛び降りる他ないんじゃないか…?という救いのない結論である。 この問いを僕はなんとかこの数年で乗り越えたい。迷惑。 人に迷惑をかけてはいけませんと言われて育ってきたが、でも迷惑ばかりかけて生きている。 その場合はどうしたら良いのだろう…?本当にどうしたら良いと思いますか。 もうひとつは、本当に世界の笑いものになるという償い方である。三島由紀夫や石丸伸二みたいな。 彼らを見ていると本当につらい。いつか僕もああやって、真剣に生きているつもりなのに、それが滑稽になってしまって、そして馬鹿にされるんだろうなと思うと、その前に死んでしまいたくなる。 石丸は堂々と矢面に立って、馬鹿にされていて立派である。僕も大道芸人になるべきかもしれない。プライド。 プライドとかでもいいかもしれない。自尊心。自意識。尊大すぎる自意識。そういうのを破壊したい。でもやっぱり加害性について。一度みんな、こういうのが嫌だ!というのをとにかく並べて、客観的にそれらを眺めてみるっていうのは必要なんじゃないだろうか…?
ふぅ。ひとまず脱線した。昼飯を食い、台地の裾を歩いて丁子くんの作業部屋へ。丁子くんの弟も交えて四人で雑誌の対談に必要な対談?を繰り広げる。 疲れた。やはり丁子くんは鋭くて、僕がなぁなぁにしてしまっていたところを、しっかり的確に突いてくる。 現状の設計案の問題点は、中に貫いたボイドのプロポーションと、大きな円の大開口を的確に使用できていないため、それを乱発してしまっていることである。 考えたが有効な解決策は見つからなかった。ひとまずモデルに起こしてみるのが良いだろう。僕はまだ、正確なスケール感が掴めていない。おそらく。 ビル設計は難しい。丁子くんから提示されたのは、アスプルンドの図書館みたいに吹き抜けにアプローチするのはどうか、というのと、どれかの壁面を取り去って、 そこで斜めの大きな円の穴を見せるのはどうか、という案である。これらは少し検討の余地がある。 また設計変更したら、そしたらそれに合わせてまた対談しないといけなくなってしまうが、でもこれはやっぱり気になるので変更しないといけないだろう。南西面の、斜め壁。 これを有効活用するのがいいのではないか…?ちょっと今から描いてみよう。
僕たちがビルについて話し合い、丁子くんの弟と北岡くんが対談をして、そしたら夜になった。 そんなつもりはなかったのだが、なぜか丁子家の夜ご飯に招いてもらい、食卓を六人で囲む。 食卓には数え切れないほどのお皿に、様々なおかずが載っている。嬉しさを箸の速度で表現し、そして案の定勢いよく食べ過ぎて動けなくなる。 食後には丁子くんの部屋でお宝本を見せてもらう。 丁子くんの本棚は、見ているととても興奮する。丁子くんがお気に入りのドローイングを次から次へと見せてくれる。 ニーマイヤーの本に載っている、巨大な地平に十字の線を引き、そこにひとりの人間が描かれているドローイングについて、熱く喋ってくれる。 丁子くんはこういう建築を、都市を街を、つくりたいという。確かにニーマイヤーの建築のスケールや形態は、そういう観点から見るととてもすんなり腑に落ちる。 ただ途方もなく広がる地平にひとり立っていて、その景色の中に街を描き、その核となる建物(国会議事堂や美術館とか)を建てようと思ったら、建物はあんな風に、宇宙から降ってきたみたいになる気がする。 丁子くんはコロンブスのように、新大陸を見つけてその地にまた街をつくりたいのだという。戦争と違う惑星に進出する以外に、この方向の話はあるのだろうか。 でも丁子くんの話はやっぱり面白かった。
そして丁子家をあとにした。時計はもう十時半くらいだった。丁子くんの弟には少し申し訳ない事をしてしまった気がする。 喋り過ぎた…。丁子くんを前にして、またちょっと昂り過ぎてしまった気がする。ちょっと内輪ネタも多すぎたかもしれない。反省である。 やはりちょっと最近の僕は、人間に対する親愛みたいなのが不足している気がする。もう少し気を遣った方がいいような気がする。 社会性を著しく欠いている。というか丁子くんと丁子くんの弟の名前を忘れた。ひろのぶ、と、ともあき、だ。覚えよう。 丁子くんの名前が読めなさ過ぎて、毎回そこで行き止まってしまっていた。ひらがなのビジュアルでインプットする。ひろのぶとともあき。 ぐりとぐら。ぐりぐらぐりぐら。ひろのぶともあきひろのぶともあき。丁子くんの卒アルを見たので、ようやくその写真と共に、丁子くんの名前を覚えられそうだ。 また西成に行きたい。丁子くんの作業部屋(おばあちゃんの古アパートの空き部屋のひとつ)は良かった。 猫が入って来たり、いとこが道路から手を振ったりしていた。僕にはないものであった。日曜日の夜に、窓から漂ってくる家族の食卓の匂いとかを嗅ぐと、やはり僕は途方もなく間違ってしまっているんじゃないかという気持ちになる。
2026.4.27(月)
昨日は楽しい一日であったが、楽しい一日であるが故に、最寄り駅で降りると、あぁ死にたいなぁ、みたいになってしまう。 典型的な躁鬱病の人間だ。一体何回こんな気持ちになったら良いのだろうと、やれやれしながらシャワーを浴びる。 しかし思い返してみると、誕生日の時に今年がラストイヤーだ!くらいの気持ちになっていた。 あれからまだ三週間も経っていない。あと自分の寿命が49週間くらいしかないことを忘れていた。 そう思うと、やらなくていい事が沢山あり、やらないといけない事が沢山ある。 しかし今それをあまり真剣に考えると、疲れているので、もういいや死んじゃえ!となってしまう。 雨の日に飛び降りたりするのはあまり気が進まない。なんかじめじめしていて気持ちよくなさそうである。 窓を開ける気にもなれない。雨が降っていてからうまく自殺できなかったんだ、みたいな曲はありそうだ。 丁子くんの家にある良い選書たちの並びを見て、僕ももっと本を読みたいなと思う。 この一年で、どれくらいの本が読めるだろう。やっぱり途中までしか読んでいない「1Q84」が読みたくなってきた。 夏目漱石も読んでいると凄まじくて、次も読み、さらに読んでいかなければという気持ちになる。 「カラマーゾフの兄弟」も読んでいないし、これらをあと49週間で読み切れるのかはあまり自信がない。 ひとまずは、電車の中で頑張って読んでいくのみである。今日の帰りの電車で、派手やかなカップルが、僕の右横に腰掛けた。 彼氏の声は大きすぎ、そして話している内容も、コンビニで!電池を!買おうね!みたいな感じで、それくらいの内容をとても大きな声で、凄い重要なことのように述べていた。 僕は必死に「虞美人草」を読んでいた。彼氏の大きな声を聞きながら、彼らの方が僕の数百倍くらい、幸せなんだろうなと思った。 そんな風に思いながら、そんな風に思ってしまうのは、この本を頑張って読んでいる意味が全くないなと思った。 おかしかった。引き続き彼氏は大声で喋り続け、僕も続きを読むことに専念した。
唐突に場面は切り替わる。現在月曜日の朝七時四十三分。元町のコメダ珈琲。 高い靴音が空いている店内に響き渡る。誰かと思えば、先日のモンスター老人客である。何しに来たんだろう。 店員さんも先日の記憶があるのだろう。一般客に対しては死ぬほど無愛想なおばさん店員も、その人に対してはネコナデ声を出している。 今日はひと悶着ないといいんだが。
おしぼりを首にかけて、部活の休憩時間のように首筋を拭いていた。斬新である。
周さんに夕飯の予定があり、19時強制退社。あと150頁くらいまで進んでいた「虞美人草」を読み切る。 宗近くんは、一年に一度は人生に真面目にならないといけないよと、小野さんに伝えていた。 そういうことが分かっているのに、宗近くんの位置づけは甲野さんと対局で、たぶん「死ぬことの怖さが分からない人」になっている。 死のことについて考えたことが無い人っていうのは、大抵は分からず屋なんだけど、宗近くんはしっかり分かっている人間だ。 かつては分かり屋かつ、死ぬのが怖くない人という人種が存在していたのだろうか。 そんなのを読みながら考えていたら、希死念慮も薄まってきたので、大股で駅へ歩いていって帰った。 ツイッターに流れてきたチェックが10個以上ついたらうつ病のサイン!みたいなツイートを見たら、全て該当していた。 完全なうつ病人間である。治療費は山崎事務所が払ってくれたりするんだろうか。別に払ってもらわなくていいけど。 夢くらいで勘弁してほしい。うつ病の僕を雇うリスクについて、つっきーにはちゃんと伝えた方が良い気がする。 今度の焼肉で伝えよう。それにしても全項目に該当するって、結構重症なんじゃないだろうか。商店街の二階の喫茶店の窓からは、向いの建物でおとながフィットネスをしている様子が見える。 精神科に行くか、カウンセラーに電話するか、走って帰るか、この三択を早急に選択する必要がある。 あとは、日々のタスクの中に、ちゃんとシャワーを浴びてちんちんを洗う、っていう項目をつくろう。歯磨きをちゃんとして寝るっていう項目をつくろう。 キャンセルしてしまうというのは、うつ病の主な兆候らしい。まずい。キャンセルしよういう強い意志を抱いている。 しないように気を付けなければ。虞美人草の時代は道義を忘れて死を忘れた人間に溢れていたかもしれないが、百年ほど経って、逆に死しか漂っていないみたいな時代になったのではという気がする。 社会が担ってくれていた死の気配を、個人個人が担う時代になっている。生きることを考えるのは難く、死ぬことを考えるのが易い。 できたらば、一番迷惑がかからなくて、納得感がある、今の環境のうちに死んでしまいたいという気もする。 ところであいつはなんで自殺したんだろうなんて考察されたくない。普通に死にたいだけだ。 今死んだら、あぁね、そだよね、みたいな感じで、スムーズにフェイドアウトしていけるんじゃないだろうか。
2026.4.28(火)
大家さんのお陰で、最近は毎日うんちが出る。まさに、「あああうんちうんち!!!」である。 大家さんに昨日、そのことを伝えたら爆笑していた。僕なりの最大限の感謝の伝え方をした。伝わっていると良い。 昨日は、揚げたてのコロッケと、野菜と、イチゴとバナナを貰った。しまった。イチゴを持ってくるのを忘れた。 リンゴも切って剥いて、持ってこようと思っていたのを忘れた。まあいいや。明日だ。今日の残りエネルギー次第であるが…。
全集を揃えたい。ビルの本棚には、揃えるべきだと思った本を、すべて揃えたい。 今僕が揃えられているのは、「ナウシカ」「漂流教室」「クレヨンしんちゃん」「アドルフに告ぐ」だけである。 漫画ばかりじゃないか。 他に揃えたいのは、
・若林
・谷川俊太郎
・ルイス・カーン
・火の鳥
・夏目漱石
・村上春樹
・ドストエフスキー
・ブッダ
・東浩紀
・宮沢賢治
・岡本太郎
・大橋仁
・ASKA
・プロ野球の黄色い選手名鑑
今揃えたいと思っているものだけでも、これだけある。大変だ。 揃えて、かつ読まないといけない。中々進まないが、淡々と日々こなしていく以外の道はないので、黙々と遂行する。 ここら辺を読み切り、揃えるのも、ビル計画における重要な作業である。ひとまずは、クレヨンしんちゃんを読み切るところからはじまる。 50巻中、今4巻分が読み終わっている。あと46巻。それが終わったら、火の鳥を買おう。並行して、夏目漱石と村上春樹を読んでいく。 電車の中でクレヨンしんちゃんを読むのは恥ずかしい。「1Q84」読んでいる方が、よっぽど痛いぜ!と若林には怒られそうであるが。 今ここにあげたのは、今までの価値観の土台になっているもので、さらにここに新たなものが入ってくるのだと思ったら、まだまだ道は果てしなく、普通に百歳で死んだとしても、終わっていない説がある。 それぐらいに世界は大きい。次は、夏目漱石の「坑夫」を買ってみようと思う。今はやっぱり読んだほうがいいなと思って「1Q84」を再開した。 これらが読み終わったら、次は誰だろう。筒井康隆とか、初期小川洋子あたりに手をつけたい。うそ。カラマーゾフを読もうと思っていたんだった。 忘れていた。そっちだ。筒井康隆や小川洋子はちびちびと読んでいこう。 こう思うと、書くのも大変だが、それにも増して読み切るのは本当に大変だ。 舟木家の人間は重要じゃない本ばかり読む人が多かったので、僕も随分遠回りをしてしまった。 本当に不思議な家である。おじいちゃんもお母さんも、でも基本的には常に本を読んでいた。常に読みかけの本が傍らになった。 僕もそれが当たり前として育ち、気づいたらばそういう人間になっていた。本を読まない日は時々あるが、読みかけの本が傍らに無い日はない。 読みかけの本すらないというのはいつが最後だろう。保育園くらい?さすがに盛ったか。でも、ずっと読みかけの本がある気がする。 おじいちゃんも、準備できない急ぎの入院以外は、本が傍らにあった気がする。 本を読むことがどう重要なのかはよく分からない。お父さんはなんとなくだけど、本を読まない人間である気がする。 お母さんは読む。おじいちゃんも読む。叔母さんも読む。おじさんはたぶん読まない。おばあちゃんも読まない。 僕は読む。弟は読まない。この違いはなんだろう。この二択の中で、どちらが幸福な人間かと問われると、本を読まない人間側に軍配があがる気がする。 みんなの家はどうなのだろう。しかしここから分かることは、読む人と読まない人というのも、結婚生活を続けられるということだ。 逆にそっちの方が上手くいくのかもしれない。ウソ。僕は母子家庭で育った。説立証ならず。どうなんだろう。 丁子くんの両親は、本を読むのだろうか。従妹は、本を読むのだろうか。西成の街には本なんて、一冊もないんじゃないだろうか。偏見である。 本を読んだほうがいいのか、そうでないのか、これは諸説ある。本を読む友だちもいるし、本を読まない友だちもいる。 親しさと読書量のあいだには、正の相関があるわけではない。でも読まない奴の方が、全体的に「イイヤツ」である気はする。 「イイヤツ」の対義語が「ワルイヤツ」という訳ではない。心地よさというか、軽さというか、その安心というか、裏が見透かされて無さそうというか…そんな感じのことである。 この話をざっくりまとめると、「なんで本読まないんだろう?謎の生態だ」みたいなところだろうか。 でももう一方でこうも言えそうである。本を読む人間にはその種類の安心感があり、逆に本を読まない人間にも、別種の安心感がある。 要するに、一人で本を読んでいるとどうしようもなく寂しくなってしまった。友だちと会いたいなあ…。こういうことを言っているのだと推察される。
2026.4.29(水)
昨日は事務所で体調が悪くなりすぎてしまい、家に帰れず、タクシーで脳外科へ行くハメになってしまった。 頭がかち割れるほど痛み、それに伴って凄まじい吐き気があった。 電車でもタクシーでも帰れそうな見込みがないので、#7119で相談し、脳外科の救急外来を紹介して貰い、そこへ向かう。 普通に死んじゃうんじゃないかというくらい頭が痛く、吐き気が凄かった。 死ぬ瞬間まであいつはユーモアを忘れなかった、というエピソードが欲しくて、必死に冗談を飛ばすが、面白くなかったのか、周さんにも、電話先のおばさんにも、タクシーの運ちゃんにも、あまり受けない。 なんとか病院へ辿り着き、MRIの中へぶち込まれる。毎日死にたいと思っているのに、いざ死にそうな体調になると、こんなザマである。 とても不甲斐ない。好機とばかりに死に走るはずではなかったのか。そう思いながら、でっかい棺桶みたいな巨大装置の中へ入れられていく。 緊張した象の心臓の音みたいな音が、ヘッドフォンの向こうからズシンズシンと聞こえてくる。
なんともなかった。夜の先生はとても不機嫌そうだった。 病院にも僕のいていい場所はなさそうだったので、お暇した。 横では倒れたおじいちゃんのもとに、息子が駆けつけていた。 僕に駆けつける人はいないのだなと思った。支払いは後日、ということで一円も払わずに病院をあとにした。 精神的にも限界のようで、肉体的にも限界を迎えてしまっているようだった。 なんとか家へ帰り、そのまま布団の中に入った。吐き気はなんとか収束したが、頭痛は相変わらずひどかった。
限界である。これ以上生きていても、自分という概念をただ汚すだけなのではないかという気がした。 精神的にも肉体的にも追いやられてしまうと、改善の足がかりはどこにもないように感じられる。 痛む頭で、いつどうやって死ねばいいのかを必死に考えてみるが、何も思いつかなかった。 でも、素早く死ぬか、じわじわ死ぬか、どちらかである。家賃を払って、未払いを返済して、各所に詫びを入れてとなると、中々死ぬのも楽ではないなぁと思った。 病院に治療費を払ってから自殺するなんて、滑稽な話である。 今日も一日、とにかく体調は悪かった。仕事をするのも難しくなってしまったし、雑誌をつくるのも難しくなってしまった。 用済みの人間である。見込みのなくなってしまった僕に、だれかなにか、かける声はあるのだろうか…? ない。サヨナラポンポン、である。 2026.4.30(木)
想像を絶する体調不良から生還。現在5/1のお昼過ぎ。晴れてきた。 気分もいい。生まれ変わったみたいだ。うそ。それは言いすぎかも。 恐らく熱がある。喉が死ぬほど痛い。鼻水が止まらない。夜中に目が覚めた時は死ぬかと思った…。 うつ病過ぎて体調が悪いのかと思って、絶望していたが、普通の風邪だった。これは嬉しい。 ガチうつ病回復不能人間になったかと思った…。ふぅ。もっと安定感のある人間になりたいなと思っていたが、どうやら僕はこうやって、締切を過ぎて安心をする度に体調を崩すみたいな、そういう生き方しかできないみたいである。 しょうがない。子どもなのだ。受け入れていこう。明日くらいからは、街に出れそうである。 明日はarchizine、行ってみようかな。行ったらまた調子乗って、買ってしまいそうである。 医療費の支払いはまだだが、大丈夫だろうか…? 四月が終わった。今月も長かった。やるべき事はやった。DIYもしたし、プロポも出せた。 雑誌も進みつつある。ビルの設計も、なんとかかたちになりそうだ。 悪くないのではと思う。 五月は何をしようか。DIYの続きをしよう。本棚を増設しよう。クレヨンしんちゃんを全巻読み切って、その次は火の鳥を全巻買う。 ティーハウスの正社員になるかどうかを決める。 雑誌の発行に向けて、原稿を書き切ろう。彼女も欲しい。ちょっと寂しくなってきた。 もう少し健康に気を遣って生活をしよう。やはり深夜労働は無理だと分かったので、22時くらいには帰宅できるようにしたい。 資格勉強も少し考えても良いかもしれない。雑誌が終わったら。ご飯ももっとモリモリ食べよう。 雑誌の小説、どうしよかな。小説なんて書ける気がしねえや。漱石の「私の個人主義」についての感想を書きたいかもしれない。 読んでねえけど。まあなんでもいいや。何でもよい!頭が痛いから、難しいことは考えられない。 ひとまずやると決めたことをやる。ちょっと五月のスケジュールも考え直してみよう。 週一くらいで人間と飯を食いに行って、週一くらいで温泉に浸かった方が良いんだろうな。 午後はどうしよ。散歩してこようかな。本でも持って。日光浴。やはり風邪薬はすげえ。効いているみたいだ。 今日コメダとか行っても大丈夫かな…?明日は朝から京都、行っちゃお。働く時間はちょっと考え直そう。減らしたい。 疲れ過ぎる。「平和と愚かさ」も読もうかな。東浩紀は良い。東浩紀はかなりすごい人間だと思う。 僕は結構、尊敬している。東は尊敬している。ASKAも尊敬している。どういう人間みたいになっていきたいかを、また考えたい。 やまけんみたいに僕はならない。芦田みたいにもならないと決める。決めた。二人ともとても尊敬できる人間であるが、目指さない。 目指さない!!!と決めた。そうやって生きていくしかないんじゃないだろうか。多分。 鼻水が、五月の草木くらいに青い。さぁ。五月である。五月も毎日死にたくなるんだろうが、あぁ死にてぇなぁと思いながら、粛々とやることをやっていきたい。